「私が視た憲法」(体験談)を紹介します
 憲法の解釈をめぐっては、色々な意見があります。しかし、数千万人(日本人だけでも数百万人)の尊い人命と引き換えに、現・日本国憲法が誕生した歴史的背景は、何人も否定できないでしょう。
 日本国憲法が制定された1947年、文部省は「あたらしい憲法のはなし」という教科書をつくり学校で教えました。1950年に朝鮮戦争が始まると、教科書から副読本になり、1952年にはなくなりました。なぜでしょう?
 戦前・戦中・戦後を知る人たちは、年々少なくなっています。この人たちの、体験を記すことで「日本国憲法誕生の歴史」を、次世代へ語り継ぎたいと思います。
 この作業は、今しかできません。
 寄せられた「体験談」を随時紹介します。

 茶の間で、憲法を! 居酒屋で、憲法を! 身近なところで憲法を!

  2013年5月25日
  畦布哲志(とうふ連九条の会代表)

寄せられた体験談

憲法をめぐる戦後の風景
               沢田 和子 1938(昭和13)年 兵庫県生まれ
 2013年6月28日記

 憲法26条 教育を受ける権利 教育の義務
@すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
Aすべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする。

 学童疎開、約四十万人
 学童疎開の最小学年であった私は、「死ぬ時も生きる時も一緒がいい」と疎開に反対して泣く母を押しきって、友人達との共同生活に憧れ、喜んで参加した。
 疎開先で勉強をした記憶はほとんどなく、身を寄せた寺の境内や縁側で、虱取りや蚕取りをしていたことのみを覚えている。シャツの縫い目には、血を吸って赤くなった大きな虱がびっしり並んでいた。それを一匹ずつ爪で殺す。
 私達は栄養失調と不潔で、やせて無気力になっていた。
 敗戦後、見舞いに来た父が、虚ろなわが子を見て驚き、同地域、同学年の子を持つ疎開児の親と語らって、緊急に、規則より早く、家に連れ戻す手はずを整えてくれた。後々知ったが、闇切符を入手するのも苦労があったようだ。
 迎えにきてくれた母親に対する感情も失い、汽車の窓の外の黄金色の稲穂のみ記憶に残っている。香しくさわやかであった。
 「家に帰っても、当分、近所の子と遊んだらあかんよ。門の外に出たらあかんよ。」
 そう母が言った理由もわからず、聞き返すこともしなかった。久しぶりに戻った家も、懐しいという実感もわかなかった。
 全身を感染性の強い疥癬という皮膚病に侵されていたので、登校は禁じられた。
 治療の日々のことはよく覚えている。硫黄を煎じて、患部に塗るのだ。その臭気も覚えている。
 父母に感染し、寝具も衣類も膿のしみだらけであった。
 極端な物質不足のため栄養と薬と清潔の維持は、どんなに大変だっただろうか。時々、遊び友達が、痒みで苦しむ私を、門の隙間からのぞきに来ていた。
 登校が許されるまでにどれ位の期間がかかったか覚えていない。
 私は1月生まれの早行きで、同級生の多くより幼なかった。幼稚園の頃から、折り紙、遊戯などに、皆と一緒について行けない、凡庸よりちょっと下目の子供で、音痴だった。年月をいくら経ても、この傾向は変らない。生まれつきのせいかも知れない。
 皆と一緒に進級は無理かもしれないとの判断で、落第も提案されたようだが、母が、勉強の遅れについては家で責任を取る、ということで及第させてもらったらしい。落第の制度が本当にあったのだろうか?
 登校を許されて学校から帰ると、狭い茶の間で、母と勉強をする。主に算数の計算と教科書の音読みばかりだったような気がするが、叱られもせず、ほめられもせず、淡々と根気よく続いた。好奇心から従姉や親戚の若い子が教えに来てくれて、勉強の雰囲気に遊びが入るのはうれしかった。
 飽きずに続けた効果と、当時の進度が今より余程のんびりしていたのか、人並み・・・の目途がついた所で、放課後の別勉・・から放免されると、家での勉強は一切しなくなった。当時の小学生は、焼野原の原っぱや路地裏で、精いっぱい、町中にあふれて外遊びをしていた。焼野原にコスモスやビロード草がいっぱい咲いていた。それは自由で楽しかった。
 地下道の屋根に昇って、寝そべり、選挙の演説などを聞きながら、時には生意気な口調で質問までする子もいた。当時の政策で印象に残っているのは「一日三合配給」!
 掃除をさぼる男子には「戦争放棄」といってホーキで追い回したり、「女のくせに出しゃばりめ」と言われると「男女同権」と言い返し、子供の遊びに憲法が日常語として使われていた。

 放課後は、子供に開放される大切な時間である。だから、母がいつまでも「別勉強」などさせているのは、継母だから継子をいじめていると解釈して、同情してくれる友達もいて、私は、ちょっとその言葉は利用させてもらったりした。でも、回復に関する母の処置は本当に適確であったと、今も感謝しているけれど。

 2013年の現在、近所の人の話
 「この辺の子は、放課後、みんな、ほんまにみーんな塾か習い事で、誰も居れへん。だからうちの孫は一人ぼっちですねん。余分なお金使われしませんからー」
 塾漬け、習い事漬けも、友だちがいなくて一人ぼっちの子も今は子供の新しい受難時代だと思う。
 子供の時に子供をしないで、どう育つのか?
 新聞折り込みのチラシには、塾の宣伝文句がセンセーショナルに躍っている。有名進学中学何人合格、有名大学に何人合格…生徒の顔写真やコメントまで載っている。
 商店は次々シャッターが降りてゆき、店主の自殺がささやかれる中で、塾の繁盛は異常である。
 わが家はJRの駅の近くにあるが、駅前には夜は塾帰りの子を待つ車が何台か並ぶ。
 政府も経済も、悪すぎて国全体が破綻するかも、と予想される中で、矛盾の壷のような学歴信仰に人々は子供を駆り立てているのか?ひょっとして宣伝だけは派手でも、塾も衰退しているのか、実際は?少子化だから。

 進学信仰は子供達のストレスの源であり、いじめの素である。そこを置いたまま、いじめ対策をしても効果はないと思う。
 たまに郊外へ出て、下校中の中学・高校生の、一見楽しそうな集団に出会うことがある。
 だが、明らかに制服からして同学年と思われる子の一人が、ぽつんと仲間のにぎわいから離れて、ドアに寄りかかって悲しげに外を見ている姿を見る。その若い人のやつれ方から、彼女が神経を病んでいるのではないか、と疑われる。だから皆、声をかけないのか、楽し気な集団は、彼女を見ないふりをしながら、見ており、その目が冷たい。そんな孤独は、みじめで痛いだろうと、他人事とは思えず、気にかかる。

 話を敗戦後しばらくのことに戻し、戦災孤児について書きたい。
 たまに両親と連れ立って、三宮に行くと、「ある所にはあるねんなー」と父が感嘆したほど、豊富な食料や物資の露店が並んであふれている。その間を見すぼらしい浮浪児が徘徊している。
 ある児は盗みをし、追いかけられ、恐ろしい勢いで私達の側を走り抜ける。ある児は進駐軍相手に靴みがきをしている…
 もし、私の家が焼け、両親が死んでいたら、私もあの子達と同じだ、と思った。
 あの子達は、病気になっても、親身に介護してくれる親を持たないのだ。寝る所も。
 JR三宮から阪急へ抜ける地下道は、朝になると、市役所の車が来て、夜の間に死んだ人を運びだしていくのだ、と、父は通勤の時に目撃したことを話してくれた。闇市の豊富な品を買う力は、その時の父にはなかった。
 スーパーインフレで、毎日、物価が上っていた。
 祖父の国債は紙くず同然、何棟かあった貸し家は、家賃統制令で値上げできず貯金封鎖とか、自己責任で備えた老後の貯えは、生計を営むにも足りなくなる。父が下級のサラリーマンだったわが家よりも、祖父達は日常生活に窮していた。
 そんな中で、私は周辺の家長達に共通の病気に気がついた。
 夜盲症、青むくれに体がふくれる、いずれも栄養不足や過労が原因である。
 鴨長明の「方丈記」に大飢饉の時には、優しい人から先に死ぬ、とあったが、妻や子のため父親は自分の食べる分を我慢したのだ。
 私の父の体も、青くむくんでいた。
「食べすぎて、太ったかな?」と父は冗談を言っていたが。

 仕事のある大の大人でもそんな状態だから、人々はお互いに他人を思いやるゆとりはなかったと思う。
 私は繁華街へ行きたくなくなった。
 何よりも孤児を見るのがつらかった。
 あの目、あの姿。
 私も、ああなっていたかもしれない。
 なのに、手助けすることができない…

 学童疎開の名目は、次世代の命を空爆から守る、ということであったが、本当は都会の食料不足を田舎に負担させるためではなかったか?と疑う。生命の保障も危うかったのだから。
 疎開先で空腹に耐えかねて、畑に入り、そっとナマの空豆を盗み食いしたことを覚えている。甘くおいしかった。今も、空豆の季節に時々、食べてみる。生で食べられたものではない。

 私は両親がいて、回復し学校にもどったが、戦災孤児はどうしたんだろうか。
 憲法発布後、ひとしく教育を受ける権利のために、国はどうしたのか。食べ住む所のない子供達の多くを放置に近い状態に置いていたのでは?
 なんとか生き延びた子は教育を受けられただろうか?
 「能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」がどこにあっただろうか?誠実な父母がいなければ、私の能力はどうなっていただろうか。「保護する子女に教育を受けさせる義務」とあるが、戦災や戦場で死んだ親は、どうやってその義務を果たすことができただろうか?
 何かにつけて「自己責任」が強調される度に、浮浪児たちのその後を思って苦しくなる。

 天皇のこと
 敗戦直後、悪い住宅事情で、夏の夕方などは、路地裏に床几を持ち出して、人々は夕涼みをしていた。その時、よく、天皇の悪口が飛び交っていた。
 皇居遙拝、御真影。あらたかさに私は幼児期洗脳されていたので、露骨な悪口を聞くと、怖かった。しかし、内心、この人たちは戦争中は、とても口にできなかっただろうなあと思っていた。
 天皇の全国巡行が行われ、お召し列車が通る、云々で、小学生は行列を作って並んだりさせられた。
 「見た?」
 「見えへんかった」
 天皇に対する敬語は子供の口から消えていた。神様から、人間天皇、国の象徴へー。
 中学になった頃だと思うが、新聞記事の小さな一行が目に留まった。
 「天皇は反共の不沈母艦」
 辞書で調べ、幼なく判断した。
 ヒトラーやムソリーニは、戦後、厳しく断罪されたが、天皇はその二人の扱いとかなり違う。その意味がここにあるのか?とか…

 「死の商人」の授業をしたソクラテス
 ソクラテスという渾名の社会科の先生がいた。
 どんなに立派な愛国的名目をつけても、裏では敵にも武器を売って、戦争の拡大でもうける資本の勢力があること。死の商人……マーチャント・オブ・デス
 戦争の被害をあれこれ語っても、戦争の起こる源がわからないと、隔靴掻痒のもどかしさが残って、どこか空しく、いらいらする。それを解決してくれたのは、ソクラテス先生だった。軍需産業の支配に視点を凝らさないと、平和への道は見えない。
 戦争で紛争を解決することはできない。

 憲法9条がに落ちた瞬間で、心からの敬意を感じた。

 アサヒグラフ「原爆写真集」
 大学生の従姉が三宮の喫茶店に連れていってくれた。そこには、大版の写真集、アサヒグラフが置いてあり、それを見るのが従姉の目的だった。
 「全部売りきれて、どこにも売ってないから〇〇という喫茶店に行って、置いてあるのを見るように」と大学の教授が言ったそうだ。
 当時としては、高い、苦いコーヒーを飲みながら、二人並んで、息をつめて、はじめての被爆者の姿を写真で見た。
 これは、後にわかったことだが、編集長は飯沢匡。米軍占領下で、原爆はタブー化されており、ばれたら発禁だけではすまない情勢であったと思う。すべての編集は固く秘密を守って行われ、当局が気がついた時は、全国の書店やキオスクの店頭で販売され、あっという間に売り切れてしまっていては、手の施しようもなかった、という快挙であったのだ。
 大学に行くっていいなあと思った。
 大学進学を考えてはいなかった頃だがー。
 大学に行き、教職についてから一年に一度は、原爆の詩や写真集を生徒に見せる、という努力は続けた。
 平和行進が自分の住む地域を通る時は、ほとんど参加した。ちょうど、期末テストの最中で忙しく、炎天下を半日歩くと、疲れて仕事にならないが、参加することで、心は少し晴れた。デモの途中、知人に会うと、胡散臭うさんくさい顔が、ぱっと晴れやかになる。平和は、非核は、すべての人が求めているものだ、と、その都度確信する。

 原発事故前は、「原発に反対するのは非国民だ」と恫喝して恥じない人が、人気のある首都の知事であったから、原発や核に反対する科学者の苦労は大変だと思う。
 だが、あの元知事は、カジノで景気回復とか、原発だけでなく、他のことでも、ちょっと変で、言わば、退廃と表裏一体で明るい未来への道がない。

 彼らが進めてきた、又、これからも進めようとしている教育路線に過剰適応して、子供達を不幸にしてはいけない。
               (元教師)


欽定憲法下の中学校
               村上  宏 1927(昭和2)年 兵庫県生まれ
 2013年6月11日記

 ケンポーはわかるけど、欽定てナンや、どう読むネン?とおしゃる皆さんが生まれる
よりもず〜〜と昔むか〜〜しのオハナシを、90歳が射程距離に入った古老が語ります:
 戦争末期の愛知一中で、在校生の大多数が予科練(特攻隊の養成組織)の志願を表明し
た史実をNHKが2010年にドラマ化し放映した。この放映の予定は、当時、たまたま愛知
一中に在学し、この予科練大量志願事件の渦中に巻き込まれた義弟が手紙で知らせてきた。
しかし、愛知県でトップの進学校に在学する生徒たちが予科練を志願、それも一人や二人
でなく、ほとんど全員が志願するなどということは、いくら戦時中とはいえ、私の頭では
「あり得ないこと」だった。だが、やや似た話を聞いた記憶が私の頭に浮かんだ:長らく
平和活動を続けていた神戸在住の老住職が、神戸では筆頭格のA中学の生徒だったとき、
その校長の息子とともに予科練に入隊した実体験だ。
 いずれも事実なのに、「あり得ないこと」という私の頭のほうがオカシイのだろうか。
大倉山にある市立中央図書館で、神戸市内の目ぼしい旧制中学校を対象に戦時中の記録を
調べたら、なるほど、A中学運動部の刊行書には、校長が次男を予科練に進ませたことが
記載されている。また、B中学の同窓誌には、海兵・海経(海軍兵学校・海軍経理学校:
いずれも海軍の幹部を養成する学校)に入る意志を示した者が全体の 2/3ほどにのぼる名
簿がある一方で、海兵に進みたいと話したら、「軍人だけで日本がよくなるものではない。
君たちはもっとしっかり勉強して大学まで進むべきだと先生にきつく叱られた」という回
想も収載されていた。この学校の卒業生の一人は、東北の代表的高校の一つの校歌が軍艦
マーチの旋律であるという新聞記事を見て、"B中学の校歌も軍歌の「勇敢なる水兵」の旋
律を丸写ししたもの" だったが、"戦後、県立高校になったとき、−−消えたようです"と
新聞に投稿している。
 空襲の激化に伴い、敵機の目をごまかすため白いビルの壁には黒い色を乱雑に塗るよう
にとの通達に従って、C中学の校史には「竿の先に雑巾を付け、屋上の胸壁から乗り出し
てコールタールを付けた」という生徒の体験談がある一方で、私の在学したD校(当時は
神戸市内でなく、武庫郡魚崎町)の記念誌には、この件が出た時、"「校舎を目立たなくし
たって、運動場が目立ってまるわかりだ。ばかなことはやめとけ」と校長が一蹴した"と
ある。D校で初代校長を務めたこの先生はかなり"風変わり"で、軍人養成校への進学を勧
めに来た者を前に、「予科練などは本校生徒が行くところじゃない。しいて軍隊へ行きた
けりゃ海兵も陸士もある。おれはこの中学へ入ってきて間違ったと思うやつは行けばいい
んだ」と発言されたことも記念誌に記されている。校長の授業は「勉強」からしばしば脱
線し、「日本は資源に乏しい国だが、お隣の国では道端に石炭がゴロゴロ転がっている。
あれをちょっと欲しいなァということで−− 」と話されたことが私の記憶に残っている。
当時、侵略戦争ということばはなかったが、これがどんなに危険な発言だったか、当時の
言論統制の厳しさは現在の人たちの想像を遥かに越えており、こんな発言が内部告発でも
されたら校長のクビが飛ぶどころでなく、国策を批判する者は、どんな目に会わされても
いっさい文句が言えない時代だった。
 風変わりな点では英語担当のa先生も似ていた。「"見る"と "見える"は日本語でも英
語でも違うんだよ」。教室の窓から外を眺めながら−− 配属将校(軍事教練を担当する
ため各学校に配置されていた将校)の指導で他のクラスが運動場で教練をしていたのであ
ろう −−英作文の例題として、「私は運動場の軍人を "見る"。彼はのんきそうに "見え
る" 」。その筋の耳に入ったら、帝国陸軍を侮辱するものとして処罰されても当然という
時代なのに。教頭はさらに輪をかけた硬骨漢で、予科練志願の意向を示した生徒に「お前
はムダ死にしたいのか」とどなりつけたというエピソードの持ち主であり、真珠湾で多数
の敵艦を撃沈したという大本営の発表に生徒たちが拍手喝采したとき、「ばかなことを喜
ぶな。この戦争、しまいには日本が負ける」と生徒たちを諭したと記念誌に書かれている。
他の中学では当局の顔色をうかがい「敵性国家のことば」として英語の授業を「自主的に」
廃止した後も、この学校は勤労動員が始まるまで英語の授業を続けるほど「偏屈」だった
反面、配属将校の一人を戦後30年近くも事務職員として雇っていたほど寛容でもあった。
 D中学は上記のような先生ばかりだったということではない。図書館での文献検索をし
ている過程で、D中学が刊行した本の中に私が「大発見」したのは「b先生が予科練の志
願を勧めた」という卒業生の証言だ。しかも、「戦争が終わったら軍の学校へ行った者の
悪口を言った」と続いているから、当時としては「標準的な」教師もこの中学は抱えてい
たことが分かる。ただし、私の知る限りでは、この学校の生徒で予科練を志願した者はい
ないし、各中等学校へ予科練志願者数の割り当てがあったことは全く知らなかった。校長
や教頭が国の至上命令を敢えて無視、握り潰していたのであろう。何度も当局に呼び出さ
れ注意や警告を浴びていたに違いないが、生徒の私たちには何も知らされず、その実情は
今となっては永遠のナゾである。
 ある日、校長が担当された「修身」の題目は「勇気」。危険なことに立ち向かうだけが
勇気ではなく、目の前のお菓子を食べずにがまんするのも勇気だと説かれた。次週は冒頭、
「今日は試験をする」に生徒一同ビックリ。「勇気について記せ」との注文だ。次の時間、
「先週、君たちの書いた答案はまともな文章になっていない。今日からこの時間には作文
を教える」。どこの学校でも当然のように校長の担当する修身が、この学校ではあっさり
変身してしまった。国の方策に同調しなかったら、たちまち「非国民」・「国賊」と非難
され、どんな虐待を受けてもそれを甘受しなければならなかった欽定憲法時代に、校長や
教頭は時勢に迎合せず、これがほんとうの勇気であることを身をもって示していたのだと
気づいたのは、私が高齢者と呼ばれる年齢に達した頃だった。不肖の弟子もここに極まれ
りというほかはなく、まことにオハズカシイ限りである。
 ところで、文頭の「欽定」については解説をするより、この憲法の前文の最終部分と、
条文のいくつかを転記しておきましょう:
「−−− 朕カ現在及将来ノ臣民ハ此ノ憲法ニ対シ永遠ニ従順ノ義務ヲ負フヘシ」−−−
また、「朕てナンや、どう読むネン?」ですか。「歴史は繰り返す」んだよなァ。
 第 一 条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス (注.之:「コレ」と読む)
 第 三 条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
 第二〇条 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス

 戦後派の皆さんは、生まれた時からこの欽定憲法に対して「永遠ニ従順ノ義務ヲ負」わ
ずにすんでいます。シアワセなことですよ。ただし、現行憲法を欽定憲法の方向へ逆戻り
させようというアベのリスクとやらが繁殖し始めそうだとか。ご注意ください。

 愛知一中の事件をテーマにしたNHKのドラマは、そのDVDを作っていますから、ご
希望の方があればお貸しします。ただし、必ず返却すると確約できる人に限りデス。

 ※DVDのお問い合わせはとうふ連9条の会までお願いします。

私の「憲法」との出会い
               大岩根 淳 1939(昭和14)年 生まれ
 2013年6月14日記

 昭和14年(1939年)1月生まれの私は戦中戦後の傷痕がまだ生々しく残っていた昭和26年春に、宮崎県の町立高鍋東中学校に入学した。高鍋町は太平洋に面した穏やかな小さな城下町であった。しかし終戦直前の艦載機の襲来によって、鉄橋や工場は、機銃掃射や爆撃を受け、その傷跡が生々しく残っていた。
 中学校の新入生は240名。全校生徒数800名あった。入学すると間もなく、小型の冊子が配付されたものだった。清 義時(せいよしとき)校長先生の指示のもと配付されたものだった。表紙に「憲法・・・・」の活字があった。重々しく、威厳を感じた。そして校長先生の指示のもと授業時間外における暗唱学習が始まった。登下校時だけでなく、時間があったら声を出して暗唱に勤める毎日が続いた。学校では暗唱した憲法条文を先生方に確認して貰うルールであった。先生方も冊子を携帯しておられた。授業の終了時や休み時間には、「先生お願いします」と廊下のあちこちに先生方の前に立つ姿があった。「第一条天皇は日本国民の象徴であり日本国民統合の象徴であつてこの地位は・・・・・・・」と廊下で先生方に出合った時や、覚えたての条文を忘れない内に職員室に出向いて聴いてもらうのである。勿論先生方は全条文を知っておられる訳ではない。しかし私達がすらすらと言えたら、或いはとちりながらでも自分の好きな覚えやすい条文が言えたらその場でOKが貰えた。特筆すべきは、一年生全員が取り組んでいるにも係わらず憲法条文についての試験(テスト)は一切無かったことである。そのせいか気楽に、安心して憲法条文に接することが出来た。戦中戦後の動乱を身をもって体験していたせいか、「新憲法」は絶対守らなければならない宝物に感じた。その時の気持ちは今も変わらない。
 清 義時校長先生の指導の元、生徒と先生が一丸となって新憲法の条文に取り組んだあの時の思い出は私にとって永遠である。

憲法誕生時の思い出
               大森  尚 1932(昭和7)年 兵庫県生まれ
 2013年6月11日記

 一九四五年八月十五日、私たちは県立第一神戸商業の二年生であって川崎重工業艦船工場の溶接工として学徒動員中であった。この日、大日本帝国はポッタム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏したが、終戦の詔勅には「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ」と明記されていた。この国体とは天皇制にもとづく立憲君主国をいい、無条件降伏と云いながらこの文言がなければたとえ国土は焦土と化し、国民は最後の一兵になるといえども徹底抗戦の構えであったことは中学生ですら自明のことであった。
さりながら天皇の戦争責任を追及する声も日本共産党を中心に高まりを見せ、中学生の討論会でも「天皇制は是か非か」が大きなテーマであった。
そういう中で、一九四六年、連合国軍最高司令官(GHQ)の監督の下、「憲法改正草案要綱」が作成され、帝国議会の審議を経て十一月三日に「日本国憲法」として公布された。
話はかわるがわれわれの母校、県立第一神戸商業学校(県商)の先輩に大山郁夫(19回)がをり、戦時中のアメリカ亡命から帰国、あたかも凱旋将軍のような歓迎をうけた。もし日本が共和制を採るなら初代大統領に擬せられた存在で、GHQ内部でもその動きはあった。同じく大山の十年後輩の野坂参三(30回)が中国・延安から帰国、日本共産党から衆議院に出馬し、「愛される共産党」をキャッチフレーズに、国民的ヒーロになっていたが、日本国憲法について「われわれは民族の独立をあくまでも維持しなければならない。―中略―当憲法第二章・戦争の放棄は、わが国が自衛権を放棄して民族の独立を危うくする危険がある。それゆえにわが党は民族独立のためにこの憲法に反対しなければならない。」と演説した。 「新憲法」が施行された一九四七年五月三日は四年生になり、新聞部や社会科学研究部も発足して中学生ながら政治意識の高まりをみせていたころ、学校から新憲法の対する感想文が課題として全校生徒に求められた。私はこれら先輩に多大の影響を受け、当然のことのように、第一章、天皇の存在を否定し、第二章戦争放棄にも反対した。この課題は採点の対処とはならず、日ならずしてGHQのプレスコードについてガイダンスがあり、これまで自由だった新聞や社研の機関紙が教師からの検閲を受けるようになった。
 一九五〇年、私は大学生になった五月、朝鮮戦争が勃発、日本共産党は非合法になり、連合国軍最高司令官マッカーサーが「日本国憲法は自衛権を否定せず」と声明。翌五一年は国論を二分する「全面講和か」「単独講和か」の論争ののちサンフランシスコ講和条約が成立、同時に調印された日米安保条約の改定をめぐって六十年安保闘争が激化。一九九一年、ソ連邦崩壊。
 今年、私は八十一歳になったが、この間、価値観の変動を何度も見てきた。
 結局、「不磨の大典」といわれた明治憲法の手続きによって成立した新憲法も「平和憲法」といいながら「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼し」、「いずれの国家も、自国のことのみに専念し、他国を無視してはならない」という普遍的なフィクッションの上で成り立っているのである。憲法は国家の在りようを示す根本法であって思想やイデオロギーではない。守るべきものでもなく運用すべき法である。

私の戦時中の体験と「あたらしい憲法のはなし」の出版が打ち切られた背景
               田中 敏夫 1931(昭和6)年 兵庫県生まれ
 2013年6月7日記

一、社会全体が戦争一色にぬりつぶされていた私の少年時代
☆ 夫の出征を見送る際、そっと涙を拭った妻を非難した近隣の人たち
 私が小学校の3年生ぐらいのときだったでしょうか。私の隣の方が出征されました。その見送りの際のことです。近所の人たちが多く集まって見送りましたが、最後に玄関を出て行かれる際、その方の奥さんがそっと涙を拭われたそうです。私はまだ子どもでその様子は見ていませんが、この後、近所の人たちが「めでたい日に涙を見せるとは」と、盛んに口にされるようになり、子どもだった私ですがこの異様な雰囲気が心に焼きつき80歳を超えた今もふと事あるごとに思い出されてきます。

☆ 南京陥落やシンガポール陥落で町を挙げて行われた提灯行列
 もう今では詳しい様子を思いうかべることはできませんが、南京陥落などで提灯行列が行われ、親に連れられて行列に参加したことを覚えています。まさに街じゅうが「勝った」「勝った」で沸きかえっていました。しかし、当時、国民の誰もが南京やシンガポールで虐殺行為が行われたことなど知る由もありませんでした。これは私が戦後、三菱電機で働くようになり、職場の班長が自らの体験としてシンガポールで虐殺行為を行った部隊にいて、自らも銃を撃ったことを含めその様子をまざまざと語られ、ただ驚き、私の戦後の生き方に強い影響を与えました。
 このようにして国民の多くが戦勝気分を味わっている一方で、出征兵士を送るために近隣の人たちが揃って芦屋駅まで見送りに行ったことも何度かあります。また学校からは、先生に引率されて摂津本山駅まで見送りに行ったことも少なくありません。
               (「神戸子どもを守る会」会長)
全文については、こちらをご覧ください

敗戦に伴う、自然の流れとして憲法を受け入れた
               藤田  保 1926(大正15)年 兵庫県生まれ
 2013年6月4日記

 戦後の新憲法は1946年11月3日公布、1947年5月3日施行されました。
 敗戦に伴う新憲法の制定は、天皇制政府にとっては一大衝撃であったであろうが、一般国民にとっては、当然のごとく自然の流れとして受け入れたのではなかったでしょうか。
 私のような戦前生まれの者にとっては、昭和20年8月15日の敗戦は、「神国日本は不敗」と信じさせられていたので、信じられない出来事として衝撃を受けました。
 憲法制定の当初は「マッカーサー憲法」、「押しつけ憲法」という声が、アメリカ占領下という現実のもとに、広くあったのは事実でした。
 私自身が憲法そのものに具体的に接したのは、学校の法学概論の講義の時間においてでありました。その当時は、憲法そのものに対しての感想よりも、まだ敗戦の事実の方が印象が強烈でした。絶対に負けないと信じさせられていた、わが国が敗戦という事態に衝撃は大きく何もかも信じられない不信感に陥りました。
 具体的に憲法の内容について、生活のなかで考えるようになったのは、兵庫県職員として地方行政実務につくようになってからであったように思います。
 重要な条項は多いが、とりわけ重要と思われるものは、第9条の戦争の放棄、第25条の生存権、第96条の改正手続きに関するもの等があげられるが、それだけに限られるものでは決してない。

母が『憲法のはなし』を拾い読みしたころ
               本多 昭一 1939(昭和14)年 栃木県生まれ
 2013年5月30日記

 まったく私的な話で恐縮ですが、私の母(故人)は貧しい小作農の娘で、小学1年の時から地主の家の「子守」仕事に出されたので文字を学ぶこともできなかったそうです。戦前でも義務教育の制度はありましたが、実際には「子守」をしている子は赤ちゃんをおんぶして学校に行くので、赤ちゃんが泣きだすと先生が「お前は外に出ていなさい」と言うので、ほとんど勉強はできなかったそうです。「子守」は食事をさせてもらえるだけで、無給だったそうです。(TVドラマ「おしん」を見て、自分と同じだと思ったそうです。)
 12,3歳になると「女中」奉公に出されました。「女中」は泊まり込みで、有給でした。その給料を実家に送りました。20歳のとき見合いして鋳掛職人と結婚、私の姉と私と弟を産みました。弟が生まれてすぐ、昭和18年に召集令状が来て出征しました。
その時のことを聞くと母は「父ちゃんは“宵越しの金は要らない”という職人で蓄えはなく、6歳、4歳、1歳の子どもを抱えて、これからどうしたらよいか不安でしょうがなかった」と言っていました。
やがて終戦、翌1946年、私は小学校に入学しました。姉と私が文字を習うのを見て、文盲だった母も一緒に勉強して少しずつ読み書きができるようになりました。
 小学校には私と同様、父が戦死したという子が各組に数人から10以上もいました。
 ある時姉が学校で、例の『あたらしい憲法のはなし』という本を貰って(買って?)来て、家で読んでくれました。
 母も一緒に見て、自分でも読みかえして、「これからは戦争しないんだね。戦死することもなくなるねえ。」としみじみと言いました。それに続けて独り言のように「父ちゃんを戦争に引っ張り出したのは天皇だ。天皇に責任をとってもらいたい。」と言いました。母はその後も時々、「責任をとってもらいたい」と言っていましたが、昭和天皇が亡くなった時、「あの人は責任をとらずに死んでしまった。」と独り言を言っていました。
 40過ぎにやっと書けるようになった金釘流の文字の手紙をときどき送ってくれた母が亡くなって、早いもので七年になります。その母が、一文字ずつ拾いながら『あたらしい憲法のはなし』を読んでいた姿を思い出します。
               (京都府立大学名誉教授、NPOまちづくり神戸理事長)

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