私的「機関紙論と書く技術」

2005.7.12
著者:畦布哲志(あぜふてつし)
編集:きかんし協会(日本機関紙協会兵庫県本部)
発行:兵庫機関紙宣伝センター

直接的コミュニケーション手段

きかんし

  ―阪神・淡路大震災被災地で機関紙の原点を視る

:目次:
*はじめに
   ―「きかんし(機関紙)」とは、人間が生きるために必要不可欠な、直接的コミュニケーション手段です
*第1部 きかんし協会と書く技術
 ・第1章 記事と取材
 ・第2章 機関紙と組織、記事の書き方
 ・第3章 大震災、機関紙とマスコミ
 ・第4章 集団から個人へ意識変革
*第2部 続・赤えんぴつ
      (2001/6〜2004/8発行・「きかんし」掲載分のコラム)
*第3部:付録 とうふ連
*<参考・引用文献>
*編集後記

はじめに
―「きかんし(機関紙)」とは、人間が生きるために必要不可欠な、直接的コミュニケーション手段です
 電気・ガス・水道などのライフライン、通信、交通などすべての生活手段を奪われ、極限状態にあった阪神・淡路大震災被災地において被災者は、「はりがみ」や「口コミ」という「直接的コミュニケーション手段」で生活情報を交換・共有し、生きのびることができました。
 この直接的コミュニケーション手段の代表的なものが「きかんし(機関紙)」です。「きかんし(機関紙)」の発行主体は、組織(団体)だけでなく、その構成員個々も含まれるものであり、「きかんし(機関紙)」誕生の歴史も、人間が集団生活を始めた原始時代まで遡る必要があります。
 現在、すべての辞書で説明され、多くの人たちに一般的概念として定着している「機関紙とは、組織(団体)が主義・主張・活動内容等を知らせるために発行する新聞(誌)である」という定義は、狭義な解釈によるものです。
 組織(団体)が発行主体であるという、狭義な解釈のもとでは、組織(団体)が消滅すれば、「きかんし(機関紙)」も自動的に消滅します。しかし、「きかんし(機関紙)」の発行主体を、人間個々まで広げるという広義な解釈をすれば、直接的コミュニケーション手段・きかんし(機関紙)は不滅なのです。いや、不滅でなければならないのです。
 なぜならば、直接的コミュニケーション手段は、人間が社会生活を営み、生きのびるために必要不可欠な、コミュニケーション手段だからです。
 間接的コミュニケーション手段の代表的なものは「マスコミ」です。マスコミと「きかんし(機関紙)」は、「振り子」「車の両輪」のような関係で、「きかんし(機関紙)」なくして「マスコミ」は存在できないといえます。

<大震災被災地で、威力を発揮した「はりがみ」や「口コミ」>
 1995(平成7)年1月17日・午前5時46分、兵庫県南部地震が起き、阪神・淡路大震災が発生しました。その時、兵庫県が県庁内に設置していた、ハイテク技術を駆使した緊急連絡用通信システムは、地震による停電のため使用できませんでした。兵庫県が自慢していた、最新の通信情報設備はほとんど機能しなかったのです。
 高度に発達した情報化社会。近代都市のモデル的な存在だった神戸市。電気・水道・ガスなどの「ライフライン」と道路・交通機関が破壊され、電話も通じず、生活手段のすべてを奪われた、神戸市民をはじめとする被災者の多くが、情報を入手する手段として最も頼ったのは、テレビ・ラジオ・新聞などの、間接的コミュニケーション手段・マスコミでした。しかし、どこに行けば水があり、食料が確保できるのか?病院は?などの生活に必要な情報はなかなか入手できませんでした。これら生活情報の交換や、家族の安否を知らせる手段として「はりがみ」や「口コミ」が大きな威力を発揮しました。
 被災地は、何処へ行っても、街中いたるところで、倒壊した家の軒先や門に「〇〇はどこにいます」「〇〇元気です」と、安否や連絡先等を書いた紙や板切れが貼ってありました。マルチメディアがけん伝され、技術革新の世の中で、紙など何かに文字を書いて知らせるという、初歩的な直接的コミュニケーション手段が、被災者にとって最も有効な連絡手段だったのです。つまり、被災者が生きのびるためには、直接的コミュニケーション手段が必要不可欠な存在だったのです。

<極限状態の被災地では、身近な情報の共有こそ必要>
 地震発生後の数日間、絶え間なく余震が襲ってきて、本震と同規模の余震がくるという情報に被災者が怯えている間も、テレビの報道は「余震の危険性や」「東京で起きたらどうなるか」といった内容が中心でした。テレビやラジオなどのマスコミ情報だけを頼って生活している被災者の不安は、増すばかりでした。しかし、ポリタンクで水を貰いに行くとか、食料買い出しとかで外へ出る被災者は、食料品売り場や、水を貰うために並んで待つ間に、周囲の人たちと「どこの病院が開いている」「どこに湧き水がある」「あそこの銭湯は開いている」という、身近な生活情報を入手・交換できました。この「身近な情報の交換・共有」が、被災者に精神的落ち着きを取り戻させ、パニック状態になるのを防ぐのに役立ったのです。
 情報量としては、テレビ・ラジオなどマスコミの方が圧倒的に多いのですが、それを視たり、聴いたりして生活している被災者は、情報量は多いのにもかかわらず、どんどん不安になっていくのです。反対に、情報量は少ないのに、「はりがみ」や「口コミ」で生活情報を入手した被災者は落ち着いていくのです。「大局的・一般的情報から不安を感じ、身近な情報からは落ち着きを得る」という、「情報の量よりも質が、人間の心理に多大な影響を与える」ことが、阪神・淡路大震災被災地で実証されました。
 「きかんし(機関紙)」の発行主体である組織(団体)は、阪神・淡路大震災で壊滅的な被害を蒙りました。大震災発生直後の数日間、大混乱の被災地では、一時的でしたが、組織(団体)として全く機能せず、組織(団体)は消滅状態でした。ところが、「きかんし(機関紙)」は、被災者が生きのびるために必要な生活情報の共有や交換、組織(団体)の機能回復のために、「はりがみ」や「口コミ」という形で、大いに威力を発揮したのです。組織(団体)が消滅しても「きかんし(機関紙)」は残ったのです。私たちは、ここに「きかんし(機関紙)の原点」を視ました。
 1995(平成7)年3月20日・東京で、オウム真理教による「地下鉄サリン事件」が発生しました。すると、その日を境に、新聞・テレビなどマスコミの報道は、「オウム一色」になりました。阪神・淡路大震災被災地の「地元のマスコミ」以外、阪神・淡路大震災について、ほとんど報道しなくなったのです。その後、夏に、米兵による少女暴行事件が沖縄で起き、基地問題がクローズアップされると、マスコミ報道は「基地・安保・沖縄一色」になりました。その後、現在に至るまで、阪神・淡路大震災について、一貫して報道を続けているのは、被災地の近くにある一部マスコミと「きかんし(機関紙)」だけです。
 阪神・淡路大震災被災地で起きた具体的事象に啓発され、「情報の種類、発信者と受信者、メディアの役割と影響力」「間接的コミュニケーション手段・『マスコミ』と直接的コミュニケーション手段・『きかんし(機関紙)』の役割と歴史」について、考察することの必要性を痛感しました。
 それでは、はじめに、「きかんし(機関紙)」というものが、現在どのように定義づけされ、理解されているのかについて考察してみたいと思います。

<一般的に定着している「きかんし(機関紙)」の概念は狭義なもの>
 インターネット辞書で「機関紙」を検索すると、「きかん‐し[機関紙・機関誌]=ある団体や組織が、その主義・主張や活動の宣伝などのために発行する新聞、または雑誌」とあります。この定義が、「きかんし・機関紙(誌)」の一般的概念として、現在広く定着しています。ところが、この定義だけでは、阪神・淡路大震災の被災地で活躍した「はりがみ」や「口コミ」という形の「きかんし(機関紙)」を説明することはできません。「はりがみ」や「口コミ」のほとんどは、組織(団体)ではなく被災者個々人が発行したものだったのです。
 1953(昭和28)年ウイーンで、第3回世界労働組合大会が開かれ、「宣伝の決議」というのがなされ、それ以降、「動員者」「教育者」「組織者」というのが機関紙の役割であるとされ、広く認知されています。しかしこの3つ役割でも、大震災被災地で活躍した「はりがみ」「口コミ」は説明できません。
 日本の「きかんし(機関紙)」の原点としては、明治政府が最初の広報誌として発行した「太政官日誌」、あるいは、労働運動発生以前の大衆闘争だった、自由民権運動の機関紙(誌)をとる考えもあります。機関紙関係者の多くは、1897年(明治30年)日本ではじめて発行された労働組合機関誌「労働世界」(労働組合期成会)から出発しています。
 これらの考え方の基本はいずれも、「きかんし(機関紙)」を発行する主体が、組織(団体)である」ことを前提としています。ということは、発行主体である組織(団体)が消滅すれば、当然のことですが、「きかんし(機関紙)も自動的に消滅する」と考えるのが一般的です。しかし、組織(団体)が消滅しても、「きかんし(機関紙)は残る」ということが、阪神・淡路大震災被災地で実証されたのです。
 ここで、組織(団体)がどのようにして出現するのか考察してみますと、組織(団体)は、ある日突然出現するものではありません。同じ思いや目的を持った人たちが数人集まり、相談に相談を重ねる準備期間を経て、組織(団体)が出現します。その出現のための準備期間にも、あるいは、それ以前から「きかんし(機関紙)」は存在していると考えるべきです。つまり、すべての組織(団体)は人間の集団で、その構成員一人ひとりは、生まれながらにして、自己の意見を表明するために、直接的なコミュニケーション手段として、「きかんし(機関紙)」を所有しているのです。その「きかんし(機関紙)」を駆使してコミュニケーションし、同じ主義・目的を持った個人が集合し、組織(団体)の出現に至るのです。つまり、すでに消滅した組織(団体)も出現した時はそうでしたが、現存するすべての組織(団体)が個人から出発しているのです。
 よって、「きかんし(機関紙)」の「最小の発行主体は、個人である」と位置づけるべきです。そして、一つの組織(団体)中には、多種多様な形態をした複数の「きかんし(機関紙)」が存在していると考えるべきです。その「きかんし(機関紙)」が必要に応じて発行(信)され、縦横無尽に自由に飛び交って初めて、組織(団体)が機能を発揮するといえます。
 このように考えると、「きかんし(機関紙)」というのは、「人間が生きるために必要な情報を、直接発信する“命の叫びの結晶体”である」といえます。その起源も、明治よりもはるか以前、人類が誕生し、集団生活を始めた原始時代まで遡る必要があります。「ある組織(団体)が発行する新聞(雑誌)」という定義のもと、現代の辞書でも紹介され、一般的に広く定着している「きかんし(機関紙)」の定義と概念は、狭義な解釈によるものといえます。
 「きかんし(機関紙)」の形態も、言葉・文字(記号)・音楽・演劇・インターネットなど多種多様にあるので、「きかんし」と平仮名で表示し、機関紙(誌)もその一部だと考えるのが妥当です。
 ここで、コミュニケーション手段が、どのように変化・発展してきたのかを考察してみたいと思います。

<コミュニケーションは人間の本能>
 原始時代の人類の生活については諸説があります。概略は、穴居生活で、数人か、数10人で組んで、天然の果実や、川や海の魚、貝類、さらに広い原野にいる人類以外の動物を捕まえて、食料にしていました。もちろん文字などはなく、自分の気持ちを伝える方法は会話だけでした。
 人間が生きていくためには、自分の周囲の環境に適応して、調和を保つことが必要でした。生命を維持するため、共に生活している仲間との協力も必要でした。そのためのコミュニケーションは、必要不可欠でした。
 本来的に、集団で生活する習性の人間にとって、コミュニケーションは、本能的・本質的な機能です。
 原始社会の人々の環境は、手に取れるものか、目に見えるものだけが環境でした。しかし、ある仲間が、初めて一つの山を越して向こう側を探検、その報告を聞いて他の仲間が続いて出かけ、徐々に環境が広がっていきました。
 生活の環境が広がり、生活様式も変化するのにともない、集団の人数も増加します。必然的に、集団のリーダーが生まれます。狭い環境で、少人数の集団のときは、コミュニケーションの手段も言葉だけで十分でした。

<コミュニケーション手段の原点は「会話=言葉」>
 原始時代から今日にいたるまで、コミュニケーションの大半は「会話=言葉」で行われています。
 群れる習性の人間にとって、コミュニケーションは、本能(質)的なものです。
 人間は常に、新しい情報を求め、その知識を交換し、「コミュニケーション手段」を駆使して、自分の子どもや孫、子孫たちに伝えてきました。その「コミュニケーション手段の機能的働き」、そのものがジャーナリズムの原点です。人類の生活や社会の発展段階によって、その形式、手段、方法は変化してきました。そして、現代の新聞・ラジオ・テレビ・出版物・インターネットなどにも、その基本は引き継がれています。
 今後も、科学技術はさらに進歩し、新しいメディアが、次から次へと開発されるものと思われます。しかし、コミュニケーションを特に必要とするのは人間であり、そのコミュニケーション手段の基本が、「会話=言葉」であることは不変です。直接的、間接的にかかわらず、すべてのコミュニケーション手段の原点は「言葉」なのです。

<間接的コミュニケーションを確実なものにした「文字」>
 人間の本能(質)的コミュニケーションを、より確実にし、社会生活を充足させるために、人類は幾世紀にも亘って経験と創意を重ねて文字を創りだしました。文字の発明と発達によって、人類は便利になり、文化の発展、科学の進歩を促したことは、洋の東西を問わず、人間社会の変遷と発展の歴史をみれば判然とする事実です。
 文字と人類のかかわりを歴史的にみると、文字が比較的完全な形に整えられ、確実にコミュニケーションの機能として役立てられるようになったとき、その文字を一方的に役立てて使用したのは、ごく一部の支配階級の人間でした。つまり、支配階級が文字によるコミュニケーション手段を支配することによって、民衆と土地、さらに一国を支配することに成功したのです。
 「663年に日本・百済の連合軍が、唐・新羅の連合軍に白村江の海戦で敗れた結果、百済国は消滅し、日本では、唐の占領軍によって、中国語以外の字の使用を禁止され、日本の古代文字が消滅した」という説もあります。朝鮮では、1939(昭和14)年の創氏改名によって「日本が、日本語と日本文字の使用を強要した」例もあるように、文字は支配を強化するための手段として用いられた歴史的な事実があります。
 一筆の高札、一通の通達によってすべてを支配することが可能だったのです。
 人類は、苦心を重ねて文字を発明し、その文字によって自らの生活を向上させる条件があったにもかかわらず、特定の人間以外は逆に文字によって束縛・拘束をうけることが多かったのです。日本の場合、一般民衆が自由に文字を書くようになったのは、江戸時代の寺子屋以降と考えるのが一般的ですから、文字によって一般民衆がどのくらい拘束・束縛され、虐げられたかは計り知れないものがあります。
 そこで、「直接的コミュニケーション手段・きかんし(機関紙)」と「間接的コミュニケーション手段・マスコミ」の役割と関係を考察してみたいと思います。
<「きかんし(機関紙)」と「マスコミ(マス・コミュニケーション)」の関係>
 歴史的にみると、マス・コミュニケーションは往々にして、権力に取り込まれ、利用されてきました。現代でも権力の側は、マス・コミュニケーションを支配下におくために必死です。逆に「きかんし(機関紙)」は、権力を批判する立場をとることが多いのは、それぞれが発達してきた歴史的背景に大きな違いがあるからだと思われます。
 マスコミは、社会に何らかの「出来事」「意見」が発生した時、その「出来事・意見」について代理となり第三者的に伝える「間接的なメディア(コミュニケーション手段)」です。つまり、社会に何らかの出来事・意見が発生しないかぎり、マスコミの情報発信は有りえないといえます。一方、「きかんし(機関紙)」は「出来事」の発生を待つ必要がありません。自らの意志で意見を発したいとき、いつでも自由に情報発信できる「直接的メディア」なのです。
 阪神・淡路大震災の被災地で、被災者は生きのびるために、直接的・コミュニケーション手段(はりがみ・口コミ)で生活情報を交換しました。そのことを、間接的・コミュニケーション手段(マスコミ)がとりあげ報道することで、地球的規模での救援活動が起きました。
 きかんし(機関紙)とマスコミの関係は、市民と市民、市民と社会(組織)を結ぶのが直接的メディア・「きかんし(機関紙)」で、そこで派生する出来事や意見を大々的に知らせるのが間接的メディア・「マスコミ」です。

<「きかんし(機関紙)」は不滅である>
 辞書・大辞林には、機関紙とは「政党や団体がその政策・方針・活動内容などを発表・宣伝する新聞」と説明されています。前述しましたが、辞書に掲載されている説明が、一般的な「きかんし(機関紙)」の概念であり、これを実践する形で多くの「きかんし(機関紙)」が発行されてきましたし、現在も発行され続けています。
 このような概念で定義づけされ、発行されている「きかんし(機関紙)」は、啓蒙・啓発・意識注入型が大半です。このタイプの「きかんし(機関紙)」の多くは、一方的で、押し付け的な内容になりがちなため、急速に読者離れが進み、消滅あるいは衰退傾向にあるのが現状です。
 「きかんし(機関紙)」とは、行動の意思決定と伝達の手段です。人間が個々の生命体として、自立していくうえでの情報・コミュニケーションの手段でもあるので、基本的には、人間が個々に意見を表明するため、生まれながらにして、「権利として所有」しているものです。この世に存在する、政党や団体などの組織といわれるものはすべて、例外なく「人間の集団」です。そこで最も尊重されるべきものは、基本的人権であり、民主主義を保障することです。
 政党や団体など、近代社会の「民主的な組織」というものはすべて、みんなの知恵と力を集めて運営しています。だから、構成員個々が権利として所有している「きかんし(機関紙)」を駆使して、情報の伝達・意思疎通・意見交換が行なわれ、「情報の共有」を土台にした民主的な方法により、集団としての意思決定が行なわれるのです。
このように、きかんし(機関紙)を「個からの発展」という立場から広義に見て解釈した場合、「辞書の説明」や、それに付随して生れた「きかんし(機関紙)の一般的概念」は、きかんし(機関紙)ができるまでのプロセスや、必然性を考慮していない「狭義」なものであるといえます。
 きかんし(機関紙)とは、本来、人間が生きのびるために、人間が生れながらにして所有している「権利としての『きかんし(機関紙)』の集合体」ですので、必然的に「参加・発信型」が基本です。ですから、極めて直接的なコミュニケーション手段です。
 日本の労働組合の組織率は20%を割りました。このことに象徴されるように、近年、個人主義的考えが広がり、人々の組織離れが急速に進んでいます。構成員の減少で、組織(団体)を維持することが困難になっているところも、顕著に増加しています。組織(団体)が消滅したら、組織(団体)としての「きかんし(機関紙)」も、当然消滅することになります。
 しかし、組織(団体)として発行されていた「きかんし(機関紙)」は消滅しても、構成員個々が権利として所有している「きかんし(機関紙)」は残ります。それは、直接的コミュニケーション手段が、人間が生きのびるために、必要不可欠な手段だからです。
 つまり、この世からすべての組織(団体)が消滅しても、人間が存在するかぎり、「きかんし(機関紙)」は永遠に存在し続けるのです。直接的・コミュニケーション手段「きかんし(機関紙)」は、不滅のコミュニケーション手段なのです。
 「きかんし(機関紙)とは、個人および組織(団体)が、それぞれの考えや思い、主義・主張・活動内容などを発信する直接的なコミュニケーション手段で、多種多様な形態がある」という表現に、「辞書の説明も改めるべき」だと私は考えます。

第1部  きかんし協会と書く技術

1章 記事と取材
<文字は、記録として永遠に残る>
 私が、鹿児島県大島郡和泊町立和泊小学校の卒業分集に書いた将来の夢は「大きな会社の社員になる」でした。本当は「大きな会社の社長になりたい」でしたが、ストレートには書けませんでした。なぜかというと、我が家は貧乏でしたので、社長(金持ち)とのギャップが大きすぎて、小心者の私は、気後れして書けなかったのです。兄たちに、「夢のない子ども」と評されたことを今でも鮮明に憶えています。小学校の卒業文集にのせる作文を書いた後で読んだ、漫画本で『実業家』という言葉があることを知りました。「将来の夢は、実業家になることです」と、格好良い表現を小学校の卒業文集に残せなかったことが、50代半ばを過ぎた現在でも悔やまれてなりません。
 一度、書いて活字となり、発表されたものは、善きにつけ、悪しきにつけ、「記録」として永遠に残るのです。

<言葉は一過性のコミュニケーション手段>
 祖父江孝男著・「文化人類学入門」(中公新書)に紹介されているのですが、アメリカの心理学者・クロウフォードさんが、チンパンジーを使って実験をしたそうです。
 チンパンジーを2匹オリの中に入れ、その外に餌をのせた台を置いてロープを結び付けます。その端をチンパンジーの手の届くところにおきます。しかしこの台を、1匹では引けないくらいの重さにして、2匹が協力しないと食物が手に入らないように、台の重さを調節したそうです。
 ところが、この2匹は協力して引っぱることになかなか気づかないで、自分だけで餌をとろうとして、めいめい勝手に引っぱる行為をくり返したそうです。ところがそのうち、2匹の引く瞬間が偶然一致することがあり、そのとき餌が手元に引き寄せられます。これをくり返すうちに、チンパンジーは互いに協力することをおぼえたそうです。この訓練がさらに進むと、台の上に餌がおかれるやいなや、気づいたチンパンジーがもう1匹に、鳴き声やジェスチュアを使って合図をして、餌を手に入れるようになったそうです。
 この2匹のうち1匹を入れ替えると、実験をはじめたときと、同じことのくり返しだったそうです。
 この実験の主役が、チンパンジーではなく2人の人間だったらどうでしょう。人間は、「言葉」というコミュニケーションの手段を持っています。チンパンジーのような訓練はいりません。さらに「文字」という記録性の高いコミュニケーションの手段も持っています。この「文字」を使って事情を知らない、第3者に伝えることも可能です。

<「言葉」と「文字」>
 私たちは現在、しごく当然のように、文字を読み、書き、コミュニケーションの手段として活用しています。しかし、これは人類の歴史からみた場合、ごく最近の短い時代のことです。
 人間は当初、自然を対象に生活していました。やがて、自然に多少の手を加えることを覚え、栽培とか、他の動物を飼育し、それらを利用・活用することへと進みました。これにともない、はじめは家族的な集団構成にすぎなかったものが、次第に大きな集団を構成するようになっていきました。そして、他の集団とも交際、関係が生じるようになっていきました。
 このように、生産手段の進化にともない、生活様式も変化し、コミュニケーションの手段として「言葉」が生れ、やがて人間は、正確で記録性のある「文字」を創造しました。
 生活様式の変化と、文明の進歩が文字を創り出し、この文字が、さらに社会進歩を促しました。文字の発明は、人間個々人の観念とか知識を、客観的に記録することを可能としました。この記録が、人間の意志の疎通とか、文明・文化の伝達に大いに貢献しました。
 コミュニケーションの手段としての必要性から、文字が創造されました。
 人間が生存していく上で一番大切なことは、いかに知識を得て、それを生活に反映させて向上していくかです。人間が幸福になり、便利になり、文化の発展を促すためには、新知識をお互いに交換することが、社会生活の重大な要素です。
 数世紀にもわたる経験と創造を積み重ねて、文字を創り出し、形が整えられたとき、その文字を、一方的に役立て使用したのは、残念なことですが、ごく一部の支配階級の人間でした。
 支配階級は文字を使って、民衆と土地、さらに一国をも支配したのです。一筆の高札、一通の通達によってすべてを支配できたのです。
 人類の歴史ではごく最近、数百年前までは、ほとんどの民衆は文字を書くことを許されず、読むだけでした。人類は文字の創造によって、自らの生活を向上させるはずでした。しかし、逆に文字によって束縛・拘束を受ける時代が永く続いたのです。

<子どもは「ほめて」伸ばす>
 私は、中学1年のとき犬を飼いました。親から引き離され、急に環境が変わったせいもあり、夜鳴きのうるさい犬でした。犬嫌いの父は、「夜鳴きがうるさく、近所に迷惑」という理由で、周囲は田畑で、人家の少ないところの親戚の家に、私の犬をやってしまいました。
 数週間後、親戚の家へ遊びに行き、犬と再会しました。尻尾を思い切り振り、喜んでくれました。夕方になり、私は家へ帰るためにバスに乗りました。バスの最後部席から、振り返ると、犬がバスを追いかけて来るのが見えました。涙が出てきました。
 このときの情景と心情を書き、校内作文コンクールに提出したら、国語の沖優先生にほめられ、コンクールで入賞し、作品が校内に展示されました。このときから、私は書くことが、なんとなく好きになりました。その後、学校の成績は、可もなく、不可もなくの平均的な成績でしたが、国語の成績だけは、常に上位にありました。

<だれでも「書く」ことはできる>
 私は現在、きかんしジャーナリストの一人として「書く」ことを仕事の一部としています。「書く」という作業は誰でもできます。そんなに難しいことではありません。しかし、「ジャーナリスト」として「書く」という作業は、かなりの困難と決意が伴います。
 ジャーナリズムというのは、常に社会を見据える役割があります。ということは、「その先端部分が常に攻撃さらされている」のです。そういう緊張感を、ジャーナリストは常に持っていなければなりません。だからといって、先端であるということ、触覚であるということを放棄してはいけません。
 毒にも薬にもならない記事を書いている間は、攻撃されることはありません。ジャーナリストの使命は、権力の監視と、社会の不条理を正すことです。ジャーナリストの物事を見る目線は、市井の位置、弱者の立場になければなりません。権力を監視し、社会の不正をただす役割の、ジャーナリストの仕事は常に危険と隣り合わせです。先鋭化した主張をすればするほど、どこかで敵をつくっていることは間違いありません。
 ジャーナリストは、自分自身の自由と同じように、他人の自由を守り通す気持ちをもちつづける必要があります。その自由を侵すものには、敢然と立ち向かっていく気概を持つべきでしょう。そのことが、敵から攻撃されたとき、守って、応援してくれる味方をつくることにつながります。
 少々オーバーになりますが、「ジャーナリストとして書く」作業は、読者の面前に自身の裸をさらけ出すような作業でもあります。言葉の裏側にいる私自身が、すべて白日の下にさらされるのです。私の洞察力、取材力、そして私の知的レベルまで、すべてが読者に知られてしまうのです。
 記事は「事実を書いた文章」です。事実とは、「その人の気持ちや考えでは、動かすことのできないことがら」です。新聞やテレビ、ラジオ、機関紙などでさまざまな「事実」が伝えられます。しかし、この「事実」は、それぞれの立場によって操作・選択されたものです。ですから、「客観報道」というのは幻想にすぎないのです。客観的報道・客観的事実が幻想であっても、主観的事実すなわち立場によって選ばれた事実は、あくまで「事実」で、ウソではありません。

<「事実」には2つの側面がある>
 私が文中で使う言葉で、誰かが傷つくかもしれない。誰かが怒るでしょう。その通りだと同調してくれるかもしれない。実際に、「どうしてあんなことを書いたのだ」という抗議を受けたことは何度もあります。
 誰もが満足してくれるようなものを、書くことは不可能です。なぜなら、事実は「相反する2つの側面」を、必ずあわせ持っているからです。
 事実の2つの側面を見抜くために、ジャーナリストは「事実を斜めに見る」習慣を心がける必要があります。何を聞いても、言葉を鵜呑みにしてそのまま信用せず、一呼吸置いて考えること、自身の目で確かめることが大事です。そういう意味では、多少臍曲がりな性格の人が、ジャーナリストには向いているかもしれません。
 記事は、記事を書く人の立場によって選ばれた事実です。そういう意味では、記事を書く人の視点が、読者の判断を左右するといえます。記事を書く人は、自分がどの立場に立つのか、権力の側か、権力を監視する側か、明確にする必要があります。立場によって、選ばれる事実が変わってきます。
 特に、きかんしジャーナリストの場合、相反する2つの立場の内、どちらか一方に有利な書き方をする、つまり自分の属する組織にとって有利な書き方をすることが特権的に許されています。しかし、このことが読者に受け容れられるかどうかは別です。実際には、記事の公平さに欠けるため、読者の反発を受けることの方が多いようです。

<登校拒否の思い出>
 私は、高校1年の3学期途中から、2年の新学期にかけて登校拒否をした経験があります。
 私が学んだ、鹿児島県立沖永良部高等学校では、授業の始まりのときは、学級委員の号令に合わせて「よろしくお願いします」と、クラス全員で先生に挨拶するのが慣わしでした。ある日の生物の授業の時、私は後ろの座席の友人とふざけており、きちんと始まりの挨拶ができませんでした。そのことが、先生の逆鱗に触れたのです。先生は烈火のごとく怒り、授業を放棄して職員室に引き揚げたのです。
 クラスで話し合いになり、私と学級委員で職員室に行き、先生に謝り、教室に帰ってもらい、授業を再開してもらおうということになりました。
 しかし、私が拒否したのです。「これまでも似たようなことがあった。そのときは、挨拶のやり直しで済んだではないか。今日に限って、職員室に帰ってしまった先生のほうがおかしい」という、理屈にもならない理屈で、私は、先生へ謝ることを拒否して帰宅してしまいました。
 そのときから、私の登校拒否が始まりました。担任の押勇次先生をはじめ、同級生が、入れ替わり立ち代り、私を説得しに来ましたが、私は頑なに拒否を続けました。「喧嘩両成敗、痛み分け」が私の要求でした。
 実を言いますと、私は6人兄弟の末っ子で、一番上の長女とは一回り以上、すぐ上の兄とも4歳の年齢差があり、周囲は大人ばかりでした。小説、新聞、雑誌などの読書量も多く、精神的には早熟だったので、人一倍都会への憧れが強く、この際できるものなら「都会の学校へ転校」したかったのです。
 1学年も終わり、当然ですが、生物の単位は不認定でした。ただし、追試を受ければ、単位認定してくれるということでしたので、大学の春休みで帰省していた兄の、「学校を変わるにしても、進級しておいた方が良い」という説得を受入れ、兄に付き添われて春休み中の学校に行き、校長室の隣の部屋で、一人追試を受けました。難しくて、全然解けませんでしたが、単位は認定してもらいました。
 都会の学校への転校の夢もかなわず、新学期も始まりました。毎日、1人で家にいるのも退屈なもの、母親の心配そうな顔を見るのもつらいので、学校へ行くことにしました。
同級生より1週間遅れで、私の高校2学年は始まりました。
 私の頑なな性格は、今でも変わりません。1つのテーマを決めたら、とことん追求するタイプで、ジャーナリストの仕事に向いていると、自己満足している昨今です。

<書くことは、取材から始まる>
 ジャーナリストにとって、「書く」作業はほんの一部です。取材対象者を決め、人に会って話を聞くことから、「書く」作業は始まっているのです。実際の「書く」作業に費やす時間よりも、人に会い、話を聞いている取材時間の方が、数倍も、数十倍も長いのが普通です。
 私は、人見知りをするタイプで、人と話をするのは余り得意ではありません。自分のほうから、積極的に話しかけるのは苦手ですが、相手の話はじっくり聞きます。相手の表情をよみとるのが得意で、微妙な変化もほとんど見逃しません。
 ジャーナリストは、常に取材メモ帳を持ち歩いています。聞いたことを正確にメモするためです。私も、メモ帳を常に持ち歩いています。しかし、ほとんど使いません。
 つまり、その場ではほとんどメモをとりません。目の前でメモをとられると、相手が話しずらそうにすることが多いのと、私自身相手の顔を見ることができないからです。
 相手の表情をよみとり、微妙な変化をとらえるのを得意とする私としては、メモをとる時間を、相手の表情や、言い回しまで、脳裏に焼き付ける時間に使っているのです。
 私は、取材が終わったら、すぐに「書く」作業をします。人間の記憶というのはいいかげんなもので、私も例外ではありません。時間が経過すると、正確に再現できないからです。
 取材後、重要な部分を記録することはあります。一応、取材の格好をつけるために、メモ帳は手にしていますが、現場ではほとんどメモしません。

<「取材」は誰もがしていること>
 「取材」という言葉は、一般にはジャーナリストの用語として使われています。たしかに、新聞、放送、雑誌、機関紙などのジャーナリストたちは、取材という名のもとにいつもあちこち走り回り、「情報」仕入れをしています。
 取材というのは、ジャーナリストだけが行うものではありません。販路を拡大するために顧客名簿を整理する営業マンも取材者です。図書館で調べ物をする学生も、学者も取材者です。テレビの料理番組を見ながら、メモをとる主婦も取材者です。調書を読み、起訴状をつくる検事も、被告を弁護するために、有利な証言や情報を集める弁護士も、その仕事の大部分は取材活動です。
 仕事や勉強だけではありません。遊びにも取材が必要です。例えば、旅行に出かける場合、どの交通機関を使うのが便利か、時刻表を調べます。宿泊するところや、どこを見物するか調べます。
 このようにみると、私たちの日常生活の多くの部分が、仕事の世界、遊びの世界、家庭でも、職場でも、取材活動で成り立っているといえます。むしろ、取材なしには生活できないのが私たちの日常である、といっても過言ではありません。取材というのは、取り立てて特別なことではないのです。

<ジャーナリストの取材>
 ジャーナリストは、報道する目的で取材します。世界の人口はいま60億人です。それぞれの人が毎日ニュースを持っています。家族、地域、自治体、企業、組合、学校、その他さまざまな段階の集団が毎日ニュースを持っています。それに自然界、宇宙のニュースもあります。このように無数にあるニュースの中から、特定のものだけが取り上げられ、報道されるのです。
 何を報道すべきか、すべてジャーナリストが主観的に判断し、多くのニュース素材の中から取材対象を決めるのです。その判断にはジャーナリスト個々人の、価値観が反映されます。
 報道対象が決まったら、どういう角度で取り上げるのか、視点の選択があります。米軍基地を報道するとき、日米安保体制を認め、政府の立場で、基地の存在を認める報道をするのか、日米安保体制を批判的に見て、基地の縮小を求める立場で報道するのかで、記事の内容は正反対になります。
 どの事実を選び、どのような内容の記事にするのか、すべてジャーナリストの主観的な価値判断によるものです。一般的に「客観的な記事」はありえません。
 搾取する側とされる側、加害者と被害者、侵略する側とされる側、この間に「客観」的立場はありません。もしあるとすれば、思想、喜び、悲しみという人間的な感情を捨て去った「非人間的」立場です。
 ジャーナリストがとるべき責任は、記事が「客観的」であるかどうかではなく、自らの立場が、権力の監視者として、弱者の立場に立っているかどうかです。こういう点で責任をとらなければなりませんし、こういう立場で取材しなければなりません。

<「主観を入れない」ことは不可能>
 ニュースの報道にジャーナリストの主観、意見を入れないことを「客観報道」といいます。主張を展開する言論活動と、事実の報道とを区別して、事実の報道はできるだけ客観的に観察、分析し、できるだけ客観的に描写、伝達することで真実に迫ることができるという考え方です。
 日本では、1945年9月、アメリカ占領軍が公布したプレス・コートによって客観報道原則が強調されました。さらに、1946年7月に制定された新聞倫理綱領で「ニュース報道には絶対に記者個人の意見を入れてはならない」と明文化されました。第2次大戦中の軍国主義報道が、きわめて主観的だったことを反省させられた結果です。
 この考え方は放送にも引き継がれ、1959年に制定された、NHKの国内番組基準では「ニュースは、事実を客観的に取り扱い、ゆがめたり隠したり、また、せんどう的な表現はしない」となっています。民放連の放送基準では「ニュースは事実にもとづいて報道し、公正でなければならない」という表現にとどまっていましたが、1996年にNHKと民放連と共同でつくった放送倫理基本綱領では、「報道は事実を客観的かつ正確、公平に伝え真実に迫るための努力を傾けなければならない」と規定しています。
 新聞(機関紙を含)を発行するとき、企画・取材・記事・編集には主観が入ります。客観ということはありえません。世の中には、様々な出来事があります。その中から、何をとりあげるか、どういう立場・側面から取材し、どこを強調した記事を書くか、取材者・編集者の判断が必要です。
 このように、新聞(機関紙を含)・雑誌や放送は、主観的作業を積み重ねてつくられているのです。ですから、ジャーナリストは、常に自分の感性を磨き、人の痛みを感じ取る感受性と想像力、歴史認識を忘れてはいけません。

<報道は「客観的」という錯覚>
 知的な活動が、一部の知識人だけに限られていた時代には、新聞などの報道にも上から下への教育・啓蒙的な役割が求められていました。新聞も社会のリーダー役を自認していました。新聞の読者も、新聞に指導性を期待し、その言説に判断を仰いでいたのです。
 しかし、民衆の教育レベルが向上するにしたがい、「新聞も放送も、事実を正確に知らせてくれればいい、判断は自分でする」というのが時代の大勢を占めつつあります。
 客観報道原則というのは、ジャーナリストの常識となっており、ニュースには主観が含まれていないと錯覚している人が非常に多くいます。自然科学的な客観報道は存在しないのです。
 政治家や官僚などの発表や発言を、そのまま客観的な事実として報道することが、客観報道であるという「間違った理解」が、最近のマスコミにはあります。その結果、マスコミが世論操作に利用されている点は、非常に大きな問題点です。
 ジャーナリストの仕事というものが、きわめて主観的な作業であることに、ジャーナリスト自身も、読者や視聴者も、もっと注意を向けるべきです。

<「何かを伝える」は、「何かを伝えない」こと>
 私は、テレビ・ラジオ・新聞などのニュース報道が、世の中の動きであり、自分自身の周りで起きている出来事よりも大事なことだと思っていました。テレビ・ラジオ・新聞などのメディアで報道されることは、世の中の典型例で、それさえ知っておれば、社会のことが良くわかると思っていたのです。
 ところが、自分でも記事を書くようになって、そうではないことに気づきました。取材先をどこにするか、取材で入手した事実のどの部分を書くかによって、容易に記事の内容を変えることができるのです。角度や順番を変えるだけで、記事のトーンが変わります。締め切り時間や、スペースの制約から、取材しても書けない事実の方が多いのです。
 テレビ・ラジオ・新聞などのメディアが送り出す情報は、現実そのものではなく、送り手の観点によってとらえられた、物の見方のひとつにすぎないのです。事実を切り取るためには、常に主観が必要です。メディアが伝える情報は、取捨選択された現実を再構成した恣意的なものです。特別な意図がなくても、製作者の思いや価値判断が入り込んでいます。
 メディアの報道は、取捨選択された情報です。メディアが「何かを伝える」ということは、「何かを伝えない」ことになります。伝えないことの方が圧倒的に多いのです。

2章 機関紙と組織、記事の書き方
<機関紙との出会い・職歴>
 私は、1967年に大阪経済大学第2経済学部に入学しました。前年、高校を卒業しましたが、1回目の大学入学試験に失敗した私は浪人中でした。鹿児島県の沖永良部島で司法書士をしていた父親が、急性緑内障で失明したため、家計収入が途絶える事態になりました。突然のことでした。父親が発症した時、最初は頭痛がひどく、内科的治療をしていたそうです。次第に目が痛み出し、島の医者の手には負えないということで、神戸で診察を受けることになりました。しかし、そのときにはすでに手遅れでした。もう少し的確な診断ができ、眼科的治療が早めにできたら、失明までいかなかったかもしれません。残念です。
 大学に入学した私は、学生課に行きアルバイト先を紹介してもらいました。当時、学生のアルバイトは、大学の学生課が窓口になり紹介するのが主流でした。大阪本町の生地問屋で、荷造り発送作業でした。神戸で治療中だった父親の、眼の治療が一段落し帰省することになりました。夏休み中だったこともあり、私が父親に付き添って島へ帰ることになりました。アルバイト先は長期に休めないので退職しました。
 島から神戸へ帰って、次のアルバイト先は、尼崎・塚口の塗料工場の大釜清掃でした。固形の顔料を溶解し、調合するために大きな釜で焚きます。溶解した塗料の元を、ドラム缶に移し、空になった大釜にこびりついた顔料を、ヘラで削ぎ落とし、洗浄するのが私の仕事でした。釜は余熱で、熱く、上半身裸で作業しました。かなりきつい労働で、長続きしませんでした。
 次のアルバイト先は、川崎製鉄子会社の運輸会社で、大阪・安治川の岸壁で荷揚げされる、鉄鋼板や鉄パイプなどの検収作業でした。一般職員としての採用だったので、服務規律が厳しく、大学入学当初から学生運動に積極的に参加していた私にとって、学校との両立がだんだん困難になり、そこも辞めました。
 そして、神戸市東灘区にある印刷会社に転職しました。総務・経理の仕事で、算盤に簿記、必死でおぼえました。職場の雰囲気にもなれ、仕事もある程度できるようになった頃に、西宮市に本社のある、東京・関西の事業部制をしき、子会社も数社あり、従業員数約500人の中堅印刷会社に吸収合併されました。
 そこでは、印刷課に配属され、大きな全紙印刷機の後ろ側で、明けても暮れても、紙積みの毎日でした、手は紙で切れて、傷だらけ、常に中腰で作業するため腰痛に悩まされました。主な印刷物は、ダイエーの包装紙・袋、そごうやモロゾフ、ユーハイムなどの包装紙、神戸製鋼の溶接棒を入れる箱などが印象に残っています。これらの企業の名前を聞くと、今でも恨めしい気持ちになります。
 1日の印刷予定量は、最初から1時間ぐらいの残業をしないとノルマ達成できないようになっていました。印刷機にトラブルはつきもので、トラブルが発生したら、ノルマ達成のため徹夜ということも度々でした。
 学生運動に参加、社会科学もある程度勉強していた私は、労働組合が必要だと思うようになっていました。

<機関紙との出会い・組合歴>
 労働組合の必要性を感じた私は、調べてみると「1人でも入れる、個人加盟労働組合」というのがあることを知り、JR(当時は国鉄)元町駅東口近くの兵庫書店という、社会科学関係の図書を専門に扱っている本屋さんの店主に、「印刷関係の個人加盟労働組合はないか」尋ねると、「兵庫印刷出版産業労働組合(兵庫印労)」というところを紹介してくれました。早速、教えられた神戸市中央区(当時は生田区)下山手通7丁目の場所へ行くと、協同工業会館という古い会館がありました。ギシギシ鳴る板床を踏み、2階へ上がると、「日本機関紙協会兵庫県本部」という看板のかかった一室がありました。この部屋を、間借りする形で「兵庫印労」という労働組合があったのです。委員長は、日本機関紙協会兵庫県本部の事務局長・川崎義啓氏が兼務していました。
 このようにして私と機関紙協会の出会いがありました。そのとき、私は21才でした。
 それからしばらくして、会社の人事異動があり、私は本部という部署に移りました。そこは、社長・副社長のお膝元で、会社の中枢部門でした。会社機密を守らなければならない職務に従事することになり、私の労働組合づくり運動は休止状態にならざるを得ませんでした。
 しかし私は、兵庫印労の組合員でしたので、組合の会議や行事には参加していました。休日や日曜日を利用して開かれる、機関紙学校にもアシスタントを兼ねて参加、機関紙づくりのノウハウを学びました。

<機関紙との出会い・協会歴>
 1974年11月、部落解放同盟による「八鹿高校集団暴力事件」で、兵庫県立八鹿高校の教職員58名が重軽傷を負わされました。この事件を「赤旗」以外の報道機関は、なぜか、あまり取り上げませんでした。
 部落解放同盟の暴力的な教育介入の不当性と、糾弾という名による集団リンチ事件の全貌を、全国に知らせ、真相を究明し、首某者を断罪する必要がありましたが、宣伝の手段がありませんでした。
 「民主的宣伝活動を展開し、持続的に継続するためには、独自の印刷設備を持つ必要がある」という結論に達し、日本機関紙協会兵庫県本部(機関紙協会兵庫)は、印刷事業部門・兵庫機関紙宣伝センターをたちあげたのです。
 意気込みは良かったのですが、印刷を事業展開するについては、技術面でも、経営面でも素人ばかり、右往左往の数年間が続いていました。
 そこで、白羽の矢を立てられたのが私だったのです。「社会変革の活動ができ、しかもそれで飯が食える、こんなに良い職場は他にない。一緒にやってみないか。君のやりたいようにやっていい」と誘われたのです。
 勤めている印刷会社は、高度成長の波に乗り、不動産部門にも事業を展開、私も資金調達の一翼を担わされ、銀行関係者への接待攻勢に、連日連夜明け暮れていました。
 「このまま、会社人間で一生を終えるのか」と考えると空しくなり、1979年9月から機関紙協会兵庫の事務局の一員になりました。来て見てびっくり、事務局員の数に比して、決定的に売上額が不足しているのです。販路拡大に奔走しました。自治体労働組合の役員として活動していた、私の兄たちにも労働組合役員を紹介してもらい、徹底的にオルグして回りました。
 印刷業に手を取られ、休眠状態だった機関紙学校の再開にも、着手しました。こちらの方は、事務局長がライフワーク的に受け持ち、私は印刷事業部門に専任する形になりました。私が事務局に入り、数ヵ月後ぐらいから、印刷事業部門の売上額が徐々に伸び始めました。
 私が機関紙協会兵庫の事務局に入ったころ、事務局長以外の事務局員は「自分たちは、兵庫機関紙宣伝センターの職員であり、機関紙協会の事務局員ではない」という意識が支配的でした。「機関紙協会と兵庫機関紙宣伝センターは一体のものだ、切り離してはいけない」ということを、事務局会議で徹底して確認しました。機関紙協会本来の活動に立ち返って、会員拡大や、各種講座・学校の開催に、事務局全体で取り組めるようになるまでには、数年かかりました。本格的に活動を展開するようになったのは、私が事務局長を引き受けた、1991年1月からです。きかんし協会が行う印刷業などの事業活動は、「機関紙協会の綱領の精神、方針を面的・量的に拡大するための具体的実践である」という位置づけが、定着するまでにさらに数年を要しました。
 私は、記事の書き方を機関紙学校で教わりました。機関紙に載せる記事の書き方について、若干記してみます。

<機関紙の記事は、正確に、短く、わかりやすく>
 記事の書き方には5つの原則があります。
 第1に、主題をはっきり決めることです。1つの記事の中に、複数のテーマが入ると、伝える主旨がボケて、読者は困惑します。1記事1テーマが原則です。大会の記事を書くときは、テ−マごとにいくつかの記事に分けて書きます。
 第2に、正確に書くことです。
 報道記事には、5W1Hの6つの要素が必要です。報道記事でより正確さが求められるのは、人名、地名、団体名、日付、数字などです。これらを間違えると、記事の信ぴょう性が半減します。
 第3に、短く書くことです。
 新聞の記事は、短ければ短いほど良いといわれています。狭い紙面に多くの記事をのせる。忙しい読者がすぐに読める。このためにも1本の記事は短い方が良いのです。
 第4に、わかりやすく書くことです。
 組合用語、略語、場違いな専門用語、必要以上の外来語など、むずかしい単語の多いのは、読者には迷惑なことです。読者が素直に理解できるような配慮が必要です。
 第5に、生き生き書くことです。
 登場する人の顔、まわりの情景など、臨場感を持って描き出すことです。

<いいたいことが、相手に通じる文章>
 機関紙の文章は、何よりもわかりやすいことが大事です。どんなに立派な考え方や、理論を書いた文章でも、読む人にわからない文章では意味がありません。
 むずかしい理論や言葉も十分自分のものにしたうえで、たとえ話などを交えて書くことです。自分でもよく理解できない言葉を、そのまま書いたら読者も迷ってしまいます。
 わかりやすい文章とは、何を言っているのか、何が書いてあるのかが読む人にスト−レートにわかる文章です。書く人の方からいえば、いいたいことが素直に相手に通じる文章です。
 わかりやすい文章を書くためには、わかりにくくしている原因を取り除くことです。
 わかりにくい文章の共通の原因といわれているものは、
(1) むずかしい用語、不消化なことばが多用されている
(2) まわりくどい言い回し
(3) 独りよがりや、キザな表現
(4) 読者に馴染みのない専門用語(組合用語・団体内部の略語)を説明なしに使ったもの
などをあげることができます。
 外来語や、新造語をやたらと使った文章も悪文にあげられます。
 1つの文の中に、主語が2つも、3つもでてきたり、主語と述語の間に修飾語が長々と入り、主語が行方不明になり混乱した文章なども、読者には迷惑です。
 難しいことを、わかり易く、わかり易いことを、楽しく・面白く書くことに心がけ、努力すべきでしょう。

<短くて、身近に感じる記事>
 短いセンテンス(文)を重ねた文章は、歯切れがよく読みやすいものです。1つのセンテンスの中に“ので”“が”“そして”“しかし”“また”などの接続詞(語)をいくつも使うと文はいくらでも長くなります。センテンスの長い文章は、読む人を退屈させます。読者に、だらだらした感じを与えないように、読む人の立場になって文章を考えることが大事です。
 機関紙でどんな記事がよく読まれるかといいますと、当然のことですが、何といっても自分自身が書いたものは、真っ先に読みます。他人が書いたものでも、自分の名前が出ている記事なら、必ず読みます。たくさんの活字の中でも、自分の名前は目立つものです。
 隣近所の知人の名前、職場でいつも話している仲間の名前が出ているときも興味深く読みます。
 つまり、人間の心理として、知っている人に関わる事がらは、ニュースでも解説でも読みたくなるものです。
 ニュース記事とは「新しい事実を知らせる」ということが主ですが、読者は「知っている事実を再確認する」ために読むことも多いのです。例えば、阪神が巨人に2対1で勝ったことを知っていながら、ファンは翌日、その記事の載っているスポーツ新聞を買って読みます。この心理です。
 読んで得する記事、読んで利口になったと思える記事も好まれます。

<記事は、逆三角形で書く>
 記事の書き方について、先輩達から教わったことは、逆三角形に記事を書け、ということでした。大事なこと、つまり結論にあたる部分を一番はじめに書き、後に行くにしたがい重要性は低くなるように書くということです。
 新聞・機関紙の読者は、まず、見出しを読み、そこでやめてしまう人も多いのです。だから、見出しでその記事の内容がわかるものでないといけないと教わりました。
 見出しを読んで、興味を持った人は記事を読みます。忙しい人は最後まで読んでくれません。だから、結論を先に書くのです。
 新聞記事の大小の扱いは、ニュースバリューもさることながら、その日の他のニュースとの比較によって変わってきます。
 通常なら、一面トップにくるようなニュースでも、その日、もっと大きなニュースがあれば、扱いはたちまち小さくなります。
 ですから、新聞記事はどの段落で切られても良いように、大事なこと、結論を前に書くのです。記者が百行にもおよぶ長い記事を書いても、実際に紙面に掲載されるのは10数行ということが頻繁に起こるそうです。だから、どの段階で記事が終わっても、必要最低限の情報は読者に伝わるように、逆三角形にするのです。
 この逆三角形は一つの方法ですが、記事を書いた記者が大事だと思った結論が先にくるので、読者の価値観とずれることもあります。

<見た通りには書けない>
 記事を書き始めの頃、報道記事には「主観を入れるな、見た通りに書け」という指導を受けました。
 果たして、見た通りに書けるでしょうか。例えば、電車に乗っている人を、見た通りに書くとします。数人同時に目に入った時はどうでしょう。数人を同時に書くことはできません。書く順番を決めなければなりません。際立った人から順に書くのか、右から順か、左から順か、あるいは年配の順か、など順番を決めて書くことになります。順番を決めること事態、すでに記者の主観が入ってしまいます。見た通りに書くことは不可能です。
 新聞の記事は、事実の報道記事が主流となっています。いわゆる5W1Hの記事です。
報道記事を、速く、正確に書くためには、5W1Hという6つの要素を盛り込めばよいとされています。
 その要素とは、「When(いつ)」「Where(どこで)」「Who(だれが)」「What(何を)」「Why(なぜ)」「How(どのように)」。つまり、「いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、どのようにどうしたか」というものです。このように、記事の書き方には一定の方法があります。これをマスターしておくと大変便利です。文芸作品と違い、記事は誰でも書ける平易な文章だといえます。

<見出しの力は偉大>
 新聞の見出しは、大変重要な役割を持っています。読者は、見出しを見、読んで「この記事を読もうかどうか」決めます。いくら良い記事であっても、その記事を読者が読むかどうかは、見出しで決まってしまうのです。
 ですから、見出しは、読者の目を引きつける力を持っていなければなりません。
 見出しは、読者に記事の内容を、短時間で理解させる力を、持っていなければなりません。
 毎日配達される新聞朝刊は、広告・写真・見出しのスペース除いても、新書判の本1冊分ぐらいの字数が収容されています。これを、1分間に700字位の、速い速度で読んでも、3時間ぐらいかかります。日本人が、1日に新聞を読む時間は、平均30分前後だそうです。これは、複数の新聞を読む人も含めてです。
 これはどういうことかといいますと、ほとんどの人が、新聞の見出しだけを見ているのです。見出しだけを見て、新聞を読んだつもりになっているのです。
 見出しにひきつけられた読者は、見出しを瞬間的に読みきります。そして、その記事の内容が読むに値するものかどうか判断するのです。
 見出しはできるだけ、記事内容を具体的に、特徴的に表現しなければなりません。「見出しとは、記事の内容を最も簡潔に表現した、最も短い文章」といえます。

3章 大震災、機関紙とマスコミ
<「新聞」と「機関紙」の関係>
 現在、「機関紙」は新聞の一部として分類されており、機関紙の一般的概念は「特殊な新聞」として固定化しています。機関紙づくりの技法も、新聞編集の技法も同じで、新聞と機関紙を外見上区別することはできません。しかし、一般新聞と機関紙では、その発行目的や役割など、性格的には大きな違いがあります。機関紙は、機関紙として独自の位置づけが必要です。
 辞書の説明によりますと、新聞は「社会の出来事について事実や解説を広く伝える定期刊行物」で、機関紙は「政党や団体がその政策・方針・活動内容などを発表・宣伝するために発行する新聞」とあります。
 辞書の説明文を読むかぎりにおいても、機関紙には独自の役割と性格があり、特別の目的があると推測することができます。
 現在の辞書では、現象面・外見上からのみの判断で、機関紙も新聞の一部として分類されています。このような理解が一般的で、機関紙の概念として固定化していますが、これだけでは不十分です。機関紙が出来上がるるまでのプロセスや、性格や目的を考慮することが必要です。

<機関紙とマスコミは立場が違う>
 労働組合や政党・民主団体などの組織が発行する機関紙は、組合員・団体構成員一人ひとりまで何が大切なのかを伝え、情報を共有し皆の気持ちをまとめ、運動への参加を促す特別の役割があります。
 大切なことを強調し、整理し、構成員の心に届け、一致団結して運動を発展させるのに必要なものが機関紙です。要求のあるところ、運動が組織されているところでは機関紙はなくてはならない存在です。
 機関紙は、政党・団体・個人が「目的」を達成するために発行するところに基本的な性格があります。誰のための、何のための機関紙であるか。企画を立て、取材をし、記事を書く上で常にこの基本が土台になります。機関紙は、発行している団体、そのメンバーである読者の視点・立場に明確に立てるし、立たなければなりません。
 機関紙以外の一般新聞(マスコミ紙)の場合、個々の記者の努力や記事には優れたものもありますが、全体としてみた場合、時の政府や大企業の立場が基本です。新聞以外の放送などマスコミ全般に同じことが言えます。
 なぜなら、大量のマスコミ関係者が、政府や自治体の審議会に参加しています。原寿雄著・「ジャーナリズムの思想」(岩波新書)に紹介されている、天野勝文・筑波大学教授の調査(1993年)によりますと、法令に基づく中央の審議会だけでも200を超え、その大半に新聞・放送人が参加、その数は現役の役員、論説委員などだけでも150人前後にのぼっています。
 地方も、36都道府県と10の政令指定都市の審議会総数だけでも2812にのぼり、このうち約600の審議会に中央、地方のマスコミ人が延べ904人も参加しています。このように、政府・自治体の政策審議に深く関わっているのです。
 記事も、官庁の発表ものに頼る傾向が強いし、広告による企業との結びつきも大きい。「朝日」「読売」「日経」など朝刊の半分以上も広告が占めているのです。
 こうした状況から、一般新聞や放送など、マスコミの基本的立場が規定されているのです。

<機関紙づくりは、人づくり>
 機関紙という形あるものをつくるために、編集者(記者)は多くの人と出会い、多くの人の英知や、情報と触れあうことができます。編集者(記者)は、取材活動を通じて多くの知識を吸収することができるのです。そのことによって、編集者(記者)自身が大きく変化・成長することができます。つまり、自己変革できるのです。
 労働組合や政党など、団体が発行する機関紙の編集者は、機関紙をつくる過程で、「組織の実態をナマに近い形でつかむことができ、組織の動きや方針、見解を一斉に伝える術を身につけ、進んだ具体例を示して、生き生きした指導ができる」リーダーとしての資質と能力を養うことができます。それぞれの組織の、立派な指導者に成長できるのです。
 具体的経験例は次のように列記できます。
(1)形のあるものがつくれる
(2)たくさんの人に伝えられる
(3)くさんの人の英知に触れられる
(4)たくさんの人とネットワークがつくれる
(5)たくさんの人の力を集めてつくれる
(6)たくさんの情報に触れられる
  (情報を多角的にとらえ、よい学習ができ、学ぶ訓練ができる)
(7)分析力、総合判断力が身につく
(8)まとめる力がつく
(9)解決の方向や解決策を考える力がつく

<機関紙と「情報の共有」>
 民主主義の基本は、人間を自立したものとして捉える、基本的人権の尊重にあります。そこでは、誰もが自由に発言する権利が保障されなければなりません。すべての組織にいえることは、組織を民主的に運営するため、情報のすべては全員が平等に共有しなければなりません。指導部など一部だけで、情報を独占することは許されません。情報の共有がなければ民主的な討論は成立しないし、集団としての民主的な意思決定はできません。
 そこでは必然的に、情報発信・コミュニケーションの手段が必要になってきます。
 機関紙は必要なときにはいつでも、自由に、直接発信できます。何ら特別な制約はありません。しかも、お互いに発信できるので双方向性がとりやすいのです。情報を共有しようとする時に、一方通行では共有できません。どうしてもコミュニケーションが必要で、双方向性が要求されます。この双方向性を取りやすいのは機関紙です。

<機関紙は、なぜ新聞形式が多いか?>
 人に何かを伝える手段として、もっとも手っ取り早いのは言葉で「話す」ことです。しかし、言葉は一過性で不正確な要素を含んでいます。そこで、確実に伝える手段として、「文字(記号)化」して伝える方法があります。その代表的なものが、数百年の歴史と伝統があり、編集技術も確立されていて、情報伝達手段として最も信頼性の高い新聞です。新聞には次のような利点もあるので、多くの機関紙が新聞形式を採用しているのです。
(1)比較的簡単に、コスト的にも安くつくれる
(2)独自の判断で、強調と省略を自由に選択できる
(3)同じ言葉で、同時に、大量に、比較的早く、正確に伝えることができる
(4)記録性があり、長期に保存できる
(5)生活のペースをじゃまされず、都合のよいときに読める
(6)必要に応じて自由に発行できる

<団体発行機関紙の「役割」「観点」>
 団体・個人に関係なく機関紙は、目的をもって発行されます。目的を実現するために、意見を一つにまとめ、世論誘導することができます。これは、機関紙のみに認められている特権的役割と言ってもいいでしょう。
 一般的に、団体発行の機関紙には、「宣伝・教育・組織」の3つの役割があるといわれています。機関紙発行に当たっては、留意すべき基本的な観点があります。機関紙の「役割」と「観点」を次に列記します。
・3つの役割
(1)宣伝  訴え、読者を励まし、共感・同意を得て、行動への参加や決意を促す
(2)教育  生の事実を中心に、情勢を知らせ、仲間の成果や失敗から教訓を学ぶ
(3)組織  方針や決定を伝え、読者と読者、指導部と読者を結ぶ
      系統的、定期的な積み重ねで、意識を高め、団結と統一を強める
・4つの観点
(1)組織の基本にたって、仲間の現状を見る
(2)運動の方向を見通して、その時の方向と重点を示す
(3)組織の民主主義を大切にし、決して形式的なものにしない
(4)思想的な攻撃とたたかう

<機関紙編集と「ディベート術」>
・ディベートと機関紙
「ディベートというのは、基本的にある一つの論題に対して賛成側と反対側に分かれて、中立的な第三者、これは大抵の場合、意思決定権を持つ人間ですが、その第三者を説得していく討論のスタイルを言います」
「ディベートの場合、あるテーマにそって肯定する側と否定する側がお互いに自分の主張を展開して、質問をし合って、反駁し合って、その結果、第三者に判定してもらいます」
「自分の主張したいことがあれば、それを支えるだけの論拠が必要です。そのためには、論拠を証明するための資料、理由づけが求められますから、結論だけを言うとか、言いたいことだけを言い放つということはディベートではあり得ません」
「ディベートの目的はあくまで、正しい最善の選択、意思決定をするための議論を行うということにあります。相手を言い負かしたり、言いくるめたり、騙したりという目的はまったくありません」
 以上の文章は、ディベート関連書物から引用しました。引用文中のディベートを「機関紙」に、第三者を「(機関紙の)読者」とそれぞれ置き換えて考えてみます。
 「ディベートは、肯定・否定のそれぞれの主張を聞いて、どちらが優位かを第三者が決定する」というものですから、機関紙に置き換えてみると「一つの出来事について、機関紙紙上には賛・否両論を載せる。それを読者が読み、どちらが正しいか・間違いかの判断は読者がする」ということになります。
 結論を下し意思決定をするのは、第三者である読者ですから、読者を説得し味方にするためには「賛・否両論どちらとも、豊富で正確な資料・データに裏打ちされた論拠のある方に説得力があり、有利です」、だから「情報・資料収集する、綿密な取材活動が必要」ということにもなります。
 「ディベートでは、まず主張を述べて、続けて理由を明らかにしていくという話法がとられます。理由づけも非常に論理的に、それにはこういう事実がある、とか、理由はいくつあるのか、それぞれの主張はどういう資料によって証明され、支持されているのか、というように、明快に展開していきます」というのは、結論を先に書き、次に説明を書き、最後に補足説明を書くという、記事の書き方と共通点があります。
 啓蒙・啓発・意識注入型の「一方的で、押しつけ記事の多い機関紙」は、読者から敬遠され読まれない傾向にあります。機関紙編集者は、「できるだけ多くの情報を読者に提供し、読者が正確に判断できるように手助けをする」もので「編集者が独自に判断した、一方的な結論の押しつけは避ける」べきです。
 しかし、多くの事実の中から何を取り上げるかを選択するのは、編集者(記者)の主観的作業です。編集者(記者)個々人の能力・価値観が読者の判断を左右すると言っても過言ではないでしょう。
・ディベーターと機関紙編集者
 ディベーターには、次のような「論理的に思考」し「論理的に表現する」能力が要求されるそうです。この能力は、機関紙編集者にも必要な能力です。
<問題発見能力>仮説と検証を繰り返し「真に重要な問題点は何か?」を見つける能力
<情報収集能力>短期間で質の良い情報を大量に集める能力
<情報分析能力>集めた情報を分析し、必要なものとそうでないものを取捨選択する能力
<情報評価能力>間違った情報はとんでもない結果を招きます。信頼できる情報かどうかを吟味し、正しい情報を選択する能力
<論理構築能力>収集した正確な情報をもとに、議論を展開していくために論理立てをする能力
<戦略能力>肯定・否定の議論の応酬です。どこでどの論点をぶつけるか、あらゆる場面を想定して戦略を立てる能力
<表現能力>正確な論理でも、第三者(審判)に理解されなければ正しく評価してもらえません。論理の骨組みに基づいてわかりやすく立論(台本づくり)する能力
<危機管理能力>最悪の事態も想定し、それでも勝てるような論理を構築しておく能力
 これらの能力のすべてを備えた人間は、ごく稀にしか存在しないでしょう。しかし、それぞれの能力を持った数人でチームを編成し、協力することで「強力で、優秀なディベーター」になることは可能です。
 これを機関紙編集に当てはめると、「集団編集体制」ということになります。
 1人の力には限界がありますし、1人でつくる機関紙は、主観的な紙面構成になりがちです。「3人寄れば文殊の智恵」という諺もあります。集団の英知を集めてつくる機関紙は、より内容の深い、客観性の高い紙面構成になることが期待できます。
 機関紙づくりは「人材育成の場」でもあります。機関紙を学び、企画、取材、記事を書き、紙面をまとめる編集作業工程そのものが、人材育成の最適な場です。1人より2人、2人より3人。編集部に、多くの人が参加することは、より多くの人材が育成されることにつながります。

<大震災と機関紙・協会編>
 1995(平成7)年1月17日午前5時46分、兵庫県南部地震が起き、阪神・淡路大震災が発生しました。
 そのとき私は、右足首を捻挫しており、歩行ができず、家の中を這いずり回っている状態でした。
 1月17日〜18日は、機関紙協会兵庫の事務局員の安否確認や、全国の協会関係などへ自宅から電話連絡しておりました。なかなか電話が通じず、様子もわからず、つらい不安な2日間でした。18日になって、やっと事務局次長(故人)と連絡がとれ、協会事務局の様子を聞くことができました。19日早朝、捻挫の足首に湿布をして固定、車を運転して(電車は不通。捻挫の私は歩行困難な状態だった)協会に行きました。私の自宅から市街地へ行くのに、唯一、通行可能だった道路・「山麓バイパス」を利用して、午前6時前に着きました。
 建物は無事でしたが、内部はひどい状態でした。電話で聞いていたとおり、通路はふさがれ、足も踏み入れられない状態でした。建物が持つのか?機械設備が使えるのか?恐らく駄目だろう!と思いました。絶え間なく、余震が続いています。「危険だから、1人のときに建物内に入るのはやめよう」と電話で申し合わせていたので、外へ出て約束の9時まで待ちました。
 その日から数日間私は、事務局長(当時)という立場上「再建のため」といいながら、実は事務局員の再就職先はないか探しておりました。スニーカーにマスク、リュックを背負い、いわゆる“震災ルック”で、職安や役所・銀行など、痛い足を引きずりながら歩き回りました。得た結論は、その時は、つまり震災発生直後は、銀行の融資条件がかなり緩和されていましたので、「必要な書類さえ揃えば、簡単な審査で手続き完了」という状態でした。機関紙協会兵庫の場合は、銀行から運転資金の借入をして再建をめざす方が、事務局員全員の再就職先を探すよりも簡単ということでした。
 ともあれ、1月末に必要な資金を確保するため手を打ちました。まず1月分の請求書を作成し、事務局員の給料・業者への支払い資金が足りないので助けてほしいという文書を同封して発送したところ、「ここで、機関紙協会をつぶすわけにはいかん」といって、会員団体の多くが快く協力してくれ、1月末の資金繰りのメドが立ちました。
 会員団体回りをする中で、兵庫の労働組合・民主団体などの起ち上がろうとする力の強さ、というか、したたかさというか、「このままでは、終わらんぞ」という気力が、日を追うごとにみなぎっていく様が、ビンビン感じられ、「ここに依拠する限り、なんとかなりそうだ」と思うようになりました。
 1月31日昼、事務局会議を開き「銀行から運転資金借入をして、再建をめざす」ことを全体で確認して、再建に向けた具体的作業を開始しました。午前中は、私は会員団体回り、他の事務局員は、分担しての事務所・工場内の片づけや整備、救出作業。運転資金借入に必要な決算書などの作成作業は、もっぱら私の自宅での作業でした。「1人では建物内にいない」という事務局内での約束がありましたので、事務局長といえども例外ではなかったのです。
 機関紙協会兵庫は、「救援・復興県民会議」の事務局の一員として宣伝部門を担当しました。労働組合と民主団体の接点となり、調整役をこなしながら、必要な宣伝物を具体的に企画・提案しつくりあげることができるという、機関紙協会の特性を活かした役割を担い、事務局員全員が総力を挙げて奮闘しました。
 大震災発生後の混乱の中で「機関紙協会」がたよりにされ、不十分ながらもそれに応えることができました。そして、兵庫の多くの仲間・団体が「機関紙協会」を支えてくれていることもわかりました。震災による被害は甚大でしたが、その後の運動の中で、機関紙と機関紙協会の位置・役割が確認できたことは大きな収穫でした。
 1994(平成6)年の、兵庫の機関紙学校で、ちょっとお遊び企画でしたが「ワープロ派vs手書き派」という討論の場を持ちました。その時、手書き派の代表が「電気が止まっても、機関紙がつくれる。だから、絶対に手書きがいい」と言いました。まさに、そのとおりの事態が起こりました。しかも、兵庫で、皮肉なことです。

<大震災と機関紙・安否確認、救援物資配送にも役立った機関紙>
 電話通信網が破壊され、安否確認もままならない状態が数日間続きました。労働組合などの団体は、その構成員の安否確認に大変手間取りました。しかし、機関紙を定期発行するなど、機関紙活動に熱心に取り組んでいた団体では、その作業が割とスムーズにすすんだようです。
 機関紙を定期発行している団体の多くは、確実に、早く、読者に届けるために、機関紙の配布ルートがほぼ確立されています。この配布ルートに従い、団体構成員の安否確認作業が着実に進められ、被害状況が正確に把握できたそうです。その後、全国から続々と届いた救援物資の配送にも、この機関紙配送ルートが役立ったのです。
 機関紙活動の実態は、取材からはじまり、記事を書き、編集、印刷、配布、集金のすべての段階で、人の手を煩わしています。一見、非効率的な「人間と人間のつながり」で成り立っており、最近主流のコスト論とは整合性のないのが機関紙活動です。
 単に情報を提供する手段として役立つだけではなく、安否確認や救援物資の配送でも威力を発揮した機関紙、その背景には、コミュニケーションを重視する、極めて人間的な作業の積み重ねがあったからだといえます。

<大震災と機関紙・生きのびるために必要な生活情報>
 大震災発生から数日間、被災地の住民が必要とした情報は『地震がなぜ起きたか?予知できなかったのか?被害を大きくした原因は?』などの解明よりも、その日1日を生きのびるための『生活情報』でした。
 さすがに、被災地の神戸新聞・サンテレビ・AM神戸などのマスコミ各社は、これらの生活情報を提供するために凄まじい努力をしました。
 被災地内外のマスコミが、被害状況を大々的に報道したので、被災地外からの大きな支援があり『被災住民を励まし、勇気づけた』ことは間違いありません。しかし、報道の視点に、被災地と被災地外のマスコミに大きなズレがあったことも事実です。

<大震災と機関紙・災害時の情報は「量」より「質」>
 私の自宅は、神戸市垂水区です。そこも震災発生から2月下旬まで、水もガスも出ませんでした。水貰いなどは全部女房・子どもたちの仕事でした。震災発生のとき私は、足を捻挫しており、歩行できなかったため、部屋の中を這いずり回っている状態でした。そのような私には、エレベーターの止まっているマンション4階まで水入りのポリタンクを運ぶことはできませんでした。
 そのようなわけで私は、テレビをつけっ放しの状態にして、機関紙協会の業務に専念していました。女房と私を比べたら、私のほうが情報量は圧倒的に多かったのに、私は不安が募る一方でした。ところが、女房は落ち着きだしたのです。
 女房いわく、「水を貰うために並んでいる間に、列の前後の人たちといろいろな話ができる。何処らへんには湧き水があるらしい、何処の風呂屋が開いていて何時間待ち、などと話していると安心でき落ち着ける」と言うのです。つまり、女房は口コミによって、数少ない生活情報を、多くの人たちと交換し「共有」することで、落ち着きを取り戻していたのです。
おかげで私も精神的に平静さを保つことができました。このような状況は、被災地の至る所にあったようです。

<大震災と機関紙・マスコミの影響力は大きいがそれが全てではない>
 大震災発生後1年間で、機関紙協会兵庫が参加・協力してつくった震災復興関係のビラは29種類・320万枚、ポスターは3万枚を超し、協力した機関紙は150万枚、震災の記録集は17団体・40種類を超しており、その後も増えつづけました。が、被災者の生活再建はほとんど進みませんでした。2度目の寒い冬を迎えても、冬布団は無いに等しく、暖房設備も不充分な仮設住宅で、お年寄りを中心に多くの凍死者が出るのではないかと心配されましたが、これといった具体的な改善策はとられませんでした。
 95年秋、東京で開かれた「11・19国民大集会」に11万人が参加したと『赤旗』は報じていました。阪神・淡路の被災地からも300人以上の代表が、必死の思いで参加していました。しかし、1・2面の記事には「震災」のしの字もありませんでした。5面に10行ほどのベタ記事はありました。翌日の政府交渉の報道記事も、数行のみでした。もちろん、マスコミ紙は全く報じません。それだけに、『赤旗』に期待していたのです。残念でした。
 マスコミの報道は、世論を左右するぐらい大きな影響力がありますから、動きが気になります。期待もします。が、なかなか私たちの思い通りの報道をしてくれません。だからといって、機関紙(ミニコミ)が代わりに、マスコミと同じことをしようとしても、所詮無理です。資金量や技術力・設備もさることながら、運動体と経営体という決定的な違いがあるのです。小手先の技法を真似るだけでは何ら解決しません。
 くり返し強調しますが、阪神・淡路大震災で「マスコミ」と「機関紙(ミニコミ)」の役割と任務(性格)が明らかになりました。両者が協力することで、よりキメの細かい情報サービスが可能になることがわかりました。
 私たちがつくる機関紙(ミニコミ)は、一方通行的な一過性の情報提供ではなく『情報の共有』(コミュニケーションが不可欠)をあくまで追求し、「将来への指針を示しつつ、組織内の団結を強め、さらに組織と組織の連携を強める」役割も担い、大きな世論をつくり、労働者・市民の生活を守る運動の中心的存在になる必要があります。このことが、大震災で証明されました。

<大震災と機関紙・機関紙=ミニコミなのか>
 私自身、大震災発生前後まで「機関紙=ミニコミ」という表現をしていたのですが、内心どうも納得できないでいました。私は機関紙と関わって30数年になり、機関紙協会兵庫の事務局に入り20数年になります。私が機関紙協会兵庫の事務局へ入った当時、機関紙協会運動は京都や大阪の機関紙協会に引っ張られる形で進んでいました。そこに追いつき、追い越せという意気込みで活動してきました。
 その当時から「機関紙=ミニコミ」という表現があり、若干違和感を持っていました。国内で、最大の機関紙『赤旗』の発行部数が200万部近く、『商工新聞』で50万部、そのほかにも数十万部発行という機関紙がいくつかあります。数の上からだけでも機関紙をミニコミと一括りにするのは無理です。エリア的にも、全国を発信単位としている機関紙も数多いわけですから、機関紙をすべてミニコミと規定してしまうのは無理です。

<大震災と機関紙・機関紙協会は接着剤のようなもの>
 「機関紙=ミニコミ」という表現は、「マスコミの影響力の大きさと偉大さを羨望し、機関紙の立場を確保したいがために」言われているのではないか?と私は考えるようになっていました。この考えが、大震災発生後のミニコミ体験を通して整理されてきました。
 機関紙とマスコミとの関係で相違点を考えたとき、機関紙の3つの役割という「教育・組織・宣伝」(果たしてこの規定が時代に合っているのかも検証の必要があると思いますが)の中の「組織」というものが、機関紙でしかできないのではないかと考えるに至りました。漠然と考えていたことが、阪神・淡路大震災発生後のミニコミ体験で、整理され、確信に変わりました。
 機関紙および機関紙協会は、「組織(人と人のつながり)」という役割の中で考えるべきです。それ以降「機関紙=ミニコミ」という表現を私はやめました。
 機関紙協会も参加する運動の中での経験ですが、「機関紙中心の活動」という言葉をよく耳にします。機関紙が中心であっても、機関紙が先頭を行く運動ではないと気づきました。大震災発生後の、被災者救援・復興の運動の中でみますと、機関紙協会が先頭を行くと「出る杭は打たれた」という経験があります。機関紙協会が突出してはだめだ、目立たないで運動を支えていく役割が重要です。目立たないけれど、運動を支えていく機関紙・協会という意味で、木工細工などに欠かせない接着剤のような、なくてはならない存在ということです。

<大震災と機関紙・宣伝中心から人と人のつながりに>
 組織(人と人のつながり)の側面が機関紙活動には大切だという視点で、先輩たちの活動を振り返って、見直し、感じたことは、どうも宣伝中心の活動ではなかったか?「目立ってなんぼ」で「宣伝する以上目立たなければならない」と宣伝の技術追求が主流の活動だったと思います。
 高度成長の時代はそれでよかったのかも知れませんが、低成長になり宣伝をしても物が売れない、賃金も上がらない。宣伝合戦になれば資金量の多い方が有利です。資金のないものが、つまり、資金の乏しいところが、資金の豊富なところに勝つには、人が動く「人海戦術」以外にはないだろうと思ったわけです。
 震災発生後の、兵庫の運動の中で、住民投票、神戸市長リコールの市民投票運動等がありました。数十万の署名が集まりました。それはどんな集め方だったのか。署名を集めるための宣伝を先行したのではなくて、まず署名を集める人を組織したのです。最初の住民投票では「まず投票箱を1万ヵ所に置こう」と1ヵ所100人で100万になる。それで1万ヵ所近い投票場所を組織し、80数万人の署名を集めたのです。はじめに、署名を集める人間を組織していったのです。
 その後の神戸空港建設を問う、実質的には、神戸市長リコール運動の様相を呈しましたが、署名収集人である「受認者」を1万人組織しようと進めました。ここでも、人の組織化が先行して、有権者のほぼ3分の1である35万人の署名を集めることができました。かつての運動は、署名を集めるために、どう宣伝をするのかという運動でした。このように震災発生後の運動では、「まず人を組織する」という運動スタイルがつくられていったのです。

4章 集団から個人へ意識変革
<組織する報道は、機関紙の特権>
 機関紙は「教育・宣伝・組織」という3つの役割を担っているといわれています。その内、「教育」と「宣伝」の2つの役割は、一般新聞や放送などのマスコミでも果たせる役割です。3つ目の「組織」という、一つの目的に向かって人を動かす、誘導する役割は機関紙しかできない、機関紙だけに認められている特権的役割です。読者・視聴者を一つの目的へ向かって誘導するような組織的報道は、一般新聞や放送などのマスコミは「してはいけない禁止事項」になっています。
 政党や労働組合・民主団体などの「組織」といわれるものすべて「人間の集団」です。運動が前進するのも、組織が強く、大きくなるのも組織を構成する人間同士のつながりが強くなり、人間がどれだけ動いたかが決定的な要因です。
 私が属している組織・機関紙協会のスローガンに、「みんなでつくろう、みんなのしんぶん」「読者が主人公の機関紙活動」というのがあります。これは、それぞれの組織の構成員である「人間(読者)」を大事にし、役に立ち、仲間としての連帯感を育み、行動に参加する意欲をかき立てるような機関紙を、専門家や担当者任せにしないで、常に、みんなが参加・協力してつくろうということです。

<一人一人の読者と向き合える機関紙>
 マスコミの新聞とちがい、あくまでも一人ひとりの読者に、どう向き合うかが機関紙の基本です。コツコツと一人ひとりオルグし、理解を広めていく労働運動・組合活動と同じように、機関紙活動もきわめて人間的な行為です。安上がりで効率性のみを追求するコスト万能論とは整合性がありません。
 集会の演壇で話すような紙面ではなく、演壇を降りてみんなの中に入り話すような編集姿勢、相手の目を見て話すような編集姿勢、相手の横に並んで座って話すような編集姿勢を貫くことで、1人ひとりの読者にまで的を絞った編集ができるのです。
 このような視点で、私の日常活動の拠点・機関紙協会兵庫は「人と人のつながりを強める」ことが機関紙の中心的役割と位置づけ、機関紙活動を通じて「人と人のよりよい関係をつくりあげ、これをさらに発展させ、組織と組織の協力・共同を実現する」ための運動を続けています。

<人と人のつながりを強める機関紙>
 私の仕事場・機関紙協会兵庫では、「ひと(人)・すき(好き)・きかんし」を合い言葉に、「人と人のつながりを強めることが、きかんし活動の原点である」という位置づけのもとに、「きかんしづくりは、人づくり。自分を変え、他人(読者)を変え、社会を変える」目的で諸活動を展開しています。
 情報発信・コミュニケーションの手段である「きかんし」は、人間が個々に所有しており「基本的に保障されている、意見表明権を具体的に行使する手段」です。
 よって、「辞書の表記を筆頭に、新聞紙(誌)に限定し説明されている、従来の機関紙の概念と定義は不充分で」狭義な理解です。そのような狭義な理解のもとからは、発展的な展望はうまれません。1つの組織内でも、それぞれの段階(1人、2人から大集団に至るまで)にふさわしい「きかんし」が、複数に存在しています。「きかんし」を個からの発展と位置づけるべきです。
 言葉、新聞、インターネットなど、「『きかんし』の形態は多種・多様」であり、「『きかんし』は情報発信・コミュニケーションの手段として、民主主義を守るため、いや、人間が生きるためには必要不可欠である」と広義に理解する必要があります。IT時代がさらに進んでも「情報の発信者も受け手も人間」という構図は普遍です。

<事業活動も運動の一環である>
 「きかんし」と「マスコミ」の関係は、振り子の関係・車の両輪のようなものです。市民と市民、市民と社会(組織)を結ぶ「直接的メディア」がきかんしで、そこで派生する出来事や事件を、大々的に知らせる「間接的メディア」がマスコミです。つまり、「きかんし」なくして「マスコミ」は存在しないのです。高度経済成長のころは、マスコミに対抗して「きかんし=ミニコミ」という位置づけで活動を展開しましたが、マスコミを模倣する物真似的な技術・テクニック論の追究に終始、結局壁にぶつかり、越えることはできませんでした。
 私の活動拠点・機関紙協会兵庫は、以上のような、「きかんし」の位置づけと考え方を基本に、兵庫県内の民主的諸運動をアシストし、大きな共同を創りあげ、運動を前進させるるために、人と人、組織と組織をつなぐ、接着剤的な役割を果たすべく日常活動をしています。
 機関紙協会の行う事業活動は、機関紙協会の綱領・方針を具体的に実践し、面的・量的に拡大するとともに、運動資金を確保する目的で行うものです。
 機関紙協会の事業活動は、あくまでも運動の具体的実践であり、機関紙運動そのものです。ですから、運動と事業活動を切り離して考え、それぞれを独自に運営するのは間違いです。

<「タテ」から「ヨコ」へ、「集団」から「個」へ社会構造が変化>
 社会の構造を考えるとき、ピラミッド的な階層構造を持った社会を、「タテ社会」と呼びます。
 集団で群れ、集団で行動することに安心を見つけ、群れから離れることを極端に恐れる傾向にの強い日本人は、伝統的なタテ社会で生活してきました。
 タテ型構造の利点は、指揮系統が明確で、全体の頂点から指示を出せば、全員が一斉に行動を開始できるので、きわめて能率的です。全員が同時に同じ仕事を行う農作業や、工場での大量生産などに向いています。
 また、タテ型構造は、機密の保持がおこないやすくなっています。情報の流れ方が決まっていて、上部へいくほどに人数が少ない構造は、機密情報が外へ漏れる可能性はきわめて少なく、安全や安定を重視する日本社会に合致する構造です。
 タテ型構造の弱点として、下部から情報をあげていくときに、能率が悪く時間がかかります。組織が大きくなればなるだけ、その傾向は著しくなります。
 最近、急速に発達しているインターネットにみられるような構造は、「ヨコ社会」と呼ばれます。インターネットでは、個人が直接世界と結ばれる構造をとっています。タテ社会では、集団主義という価値観が尊重されますが、ヨコ社会では、個人主義という価値観が重視されます。このような社会では、タテの「階層」よりも、ヨコの間の「関係」が強調されます。つまり、「個」の存在がより重視される社会構造です。そこでは、構成員の間で自由に情報が伝わり安く、接続関係もどんどん変化するので、組織としては常に柔軟です。突発的なトラブルや事故に強いという特徴もあります。全体を指揮管理する中枢部がないので、個々の判断で対応できるからです。
 タテ型の場合、頂点の部分が機能しないと、全体の機能がマヒします。しかし、ヨコ型の場合は、たとえ一部分機能しなくなっても、機能の生きている部分同士がすぐに接続できるので、全体としては大きな支障のないことが多いのです。
 インターネット網の拡充とパソコンの普及は、加速度的に拡大しています。つまり社会構造が、ヨコ型ネットワークに急速に移行しつつあるのです。教育面でも「個性尊重」が強く打ち出されています。社会構造も、人間の意識も、「タテ」から「ヨコ」へ、「集団」から「個」へ飛躍的に移行しつつあります。この変化に、対応できない組織は、後退を余儀なくされます。

<「個人の自由を許容する」機関紙は発展する>
 現在、顕著に拡がりつつある「個人主義的」考え方の傾向は、自由と個性の尊重という名目で、これからも加速度的に拡がるでしょう。
 これと比例して、労働組合の組織率の低下に如実に現れているように、「組織離れ」も将来的にはさらに進むでしょう。団体という組織そのものは、個人主義的傾向を巧みに取り入れ、質的に変化できた組織は存続できると思いますが、その役割は変化し、「個人の交流・情報交換の場」となり、組織に拘束されない、自主性にまかせる個人中心の運営になるものと思われます。
 顧みて、機関紙は現在「団体発行機関紙が主流」を占めています。機関紙協会の活動も組織(団体)に依拠しています。
 個人主義がさらに浸透し、個人の組織(団体)離れが進めば、当然、質的に変化できない団体発行の機関紙は衰退・消滅していくのは火を見るより明らかなことです。これと平行して、機関紙協会活動も質的変化をしなければ、その継続は困難になることも予測できます。
 現在、機関紙と機関紙協会は、団体の機関紙関係者とその周辺の人たちという範囲内でしか、その存在・役割は知られていません。これでは、個人主義が加速度的に進む中で、機関紙と機関紙協会の存在が忘れ去られることは間違いありません。

<束縛する組織から、交流する組織へ>
 社会は、ますます個人主義が進み、組織離れが進みます。旧態依然の機関紙活動では駄目です。機関紙協会自身、発想の転換をし、活動の視点を組織(団体)中心から個人へ移動をしなければ、次代まで生き残ることはできません。「編集技術者の育成や交流の場」としての宣伝技術追求の役割だけなら、機関紙協会を必要としません。各団体や企業だけで十分です。
 将来を見越したとき、インターネット網はさらに拡大・拡充されます。当然、社会の構造も日本人の意識・物の考え方も、タテ社会型からヨコ社会型へ変化していきます。それにともない、個人の発言力・情報発信量はさらに増え、機関紙の発行主体の主流は「団体から個人へ移行する」という考えを基本に、「人と人をつなぐ、人的ネットワークをつくるのに、機関紙は必要不可欠な、コミュニケーションの手段」として、個人レベルで捉える必要があります。そのために、「機関紙づくりは、人づくり。機関紙は民主主義の基本で、人間個々が権利として機関紙を所有している。言葉も、ホームページも機関紙の一形態」という主張を広め、組織の枠を越えて定着させていく努力が大切です。
 組織の枠を越え、直接、読者(人間・組織の構成員)と対話する最も有効で確実な手段は、機関紙などの出版物やインターネットです。
 機関紙の概念を団体発行機関紙に固定化している人、団体発行の機関紙活動で一定の成果を挙げた人、機関紙の捉え方は色々あります。「機関紙協会が次代まで、生き残るためにはどうすべきか?」という側面から考え、「組織は、人間の集団であり、主人公は人間(構成員個々人)である」という、組織論の原点に立ち返り、主人公を中心に据えた運動を進めるという、「社会の変化に合わせて、それに対応できる『きかんし(機関紙)』を育成する」新しい機関紙運動を展開しなければなりません。

<組織も、機関紙も柔軟性を>
 パソコンの普及とインターネット網の拡大・拡充で、新たな情報発信・コミュニケーションの手段が、次から次へ誕生しつつあります。人権意識が浸透し、個性が尊重されるようになりつつある最近の傾向からか、個人でホームページを開設し、情報発信する人も急激に増えています。
 きかんし(機関紙)は、「コミュニケーション・情報発信の手段」です。文字を読んだり、書いたりすることのできない赤ちゃんや子ども、視力に障害のある人にとって、意思を伝達し、情報を発信するのに役立つ「言葉」も、「きかんし(機関紙)」の一形態です。ホームページも、インターネット時代に誕生した、新しい「きかんし(機関紙)」の一形態です。このように、時代の変化とともに、技術の進歩にともない、きかんし(機関紙)の形態は変化していくのです。
 インターネットの急速な普及で、その速度はさらに速まっています。日本人、特に若者が、組織への帰属意識が希薄になっており、束縛されることを極端に嫌うようになってきました。その典型的な例が、労働組合の組織率の低下であり、政党離れです。市民運動でも、かつては革新政党が指導的役割を発揮しましたが、最近では、政党抜きの運動が盛んになってきました。
 つまり、管理指揮系統の明確な、組織型運動ではなく、個人が自発的に参加し、自主的に行動する運動が増えてきました。この傾向は、既存組織の指導力の低下という側面もありますが、社会の構造が、タテ社会からヨコ社会へ変化しつつあるのが最大の要因です。
学校教育の場では「個性尊重」が指導の柱となり、社会的にはインターネット化が急激に進み、個人主義を価値観とするヨコ社会になりつつあります。従来主流だった、集団主義を価値観とするタテ社会が後退しているのです。その結果として、日本人の価値観と意識が変化し、柔軟性を求めているのです。組織(団体)も、組織(団体)が発行する機関紙も、「個の時代」に即応できるような柔軟性が求められているのです。

第2部  続・赤えんぴつ
  *2001/6〜2004/8発行・「きかんし」に掲載分のコラム

2001.6.15 第112号
全国初の女性事務局長誕生
―単行本『赤えんぴつ』も宜しく!―
 6月9日(土)の定期総会で、県本部事務局長を橋本公子さんにバトンタッチした。機関紙協会では全国初の女性事務局長が、兵庫で誕生した。
 21世紀、`機関紙の新しい風を兵庫から吹かせようaという意気込みのあらわれである。
 次の世代に、私の機関紙論を引き継いで発展させてもらうため、若干整理し、文章化した。
 「機関紙と新聞(マスコミ)の関係」「機関紙は民主主義の基本」「機関紙だからできる情報の共有」「機関紙づくりは人づくり」「機関紙編集とディベート術」といった構成になっている。
 現象面からの理解と位置づけで宣伝と技術論中心だった、従来の機関紙活動に一石を投じ、機関紙の本質追究への問題提起になっている。ぜひ、ご一読いただきたい。
 近々発行される単行本・『赤えんぴつ』に収録されているので、同書をご購入ください。そして、いたる所で機関紙論議が交わされることを祈念している。

2001.7.15 第113号
民主運動のアシスト・「機関紙協会」
 私は、「約束の時間を守る」ことでは一目おかれていると自負している。よほどのことがないかぎり、約束の時間に遅れることは今後もない。
 他人に比べ、特に際だった才能のない私にできることは、「時間を守ること」位しかないからである。このことは、機関紙協会が担っている役割を果たすうえでも役立っているので一石二鳥といえる。
 機関紙協会は、運動をアシストする役割を担っている。だから、協会で作成する宣伝物は、運動をすすめるため「必要な時間に、必要な状態で届ける」という使命がある。時間を守ることは、運動のアシストとして必要な基本的な条件の一つである。「納期(時間)を守る機関紙協会」の存在は、民主的諸運動をすすめるのに大いに役立っている。
 多くの団体・個人が機関紙協会を支援・協力してくれるのは、「機関紙協会の役割」を理解しているからだ。期待を裏切らないようにしよう。

2001.8.15 第114号
人と知識(情報)に金をかけよう
 「きかんしセミナー兵庫」の講師料をめぐって、事務局と言い争いになった。
 「講師料はケチらずに、少しでも多く」が私のモットーである。
 兵庫の民主団体が主催する学習会等の講師謝礼は少なすぎると、私は常々思っている。財源が少ないなら、資金を集める工夫をして、評価に見合う謝礼をすべきである。
 真偽のほどはさだかではないが、兵庫県在住の学者・文化人の多くが、大阪・京都など県外で活躍しているのは、「その方が実入りも良く、より専門性が発揮できる」からであると聞いたこともある。
 機関紙協会兵庫の事業活動を通じて、私が直接入手した情報では、「兵庫の労働組合・民主団体が作成する印刷宣伝物のデザイン料は、東京で一番低いデザイン料の、さらに半分の相場」ということである。これでは、優秀なデザイナーを県内で育成するのは無理。運動停滞の一因かも知れない。一考の必要あり。

2001.9.15 第115号
極論!新聞しか読まない人はバカになる
 私は、毎日複数の新聞を読んでいるが、所要時間は30分位である。日本人が新聞を読む時間は、平均で一日・35分位ということなので、私は平均的日本人である。
 朝日・神戸・毎日などの新聞を熟読すると、一紙で3時間以上の時間を要する文字数が収容されている。一面に「11字×75行×15段」の文字数が収容できる。これに紙面数を乗じ、広告・見出し・写真などのスペース分の文字数を減じても、10数万字という文字数になる。
 新聞一紙読むのに数時間も要することを、30分位で済ますことができるのは、新聞記事には「見出し」がついているからである。記事本文を読まなくても、「見出し」を見るだけで内容が理解できる、という便利な構成になっているのである。
 見出しは結論である。新聞には結論が羅列されており、読者は自分で考える必要がない。情報量は増えるが、読者の思考力は停滞・低下するかも知れない。読書の秋だ、本も読もう!

2001.10.15 第116号
若者の間でも、「機関紙」が話題になっている
 単行本「赤えんぴつ」が7月未完成、販売開始から2ヵ月過ぎた。多方面から反応があり、嬉しいかぎりだ。運動を次世代へ引き継ぐべき年代の者として、特に若い読者からの反応が嬉しい。
 「他人を変えるためには、まず自分が変わらなければならない。自分も変わる意思表示をしないと、相手に受け容れてもらえないことがわかった。説教だけではだめなんですね」「早速、班ニュースを復活させます」「人と人のつながりを強めるためにはコミュニケーションが大事。ただ顔を知っているだけではだめなんですね」「幅広い分野(自分と同じ主義・主張の者同士の範囲をこえて)とのつきあい、情報収集が必要なんですね」などの読後感を聞いた。「格好良い生き方をしている人(著者=私のこと)なんですね」などは、嬉しさを通りこして、恥ずかしいぐらいである。
 ともあれ、「機関紙が話題になっている」ことは間違いないようで、出版の初期目的は遂行されつつある。

2001.11.15 第117号
安いだけで買っていいのか
―生産の背景を考えよう
 「途上国の立場の弱い生産者を支援するため、現地の伝統的な原料や技術を活かした製品を公正な価格で輸入」することで途上国を支援する、フェア・トレード運動というのがある。そのイベントが2か月前の9月11日・神戸であり参加した。
 輸入した物を、日本国内で販売するわけだが、輸入して販売するのはあくまで手段であって、物を売り利益をあげることが事業の目的ではなく、「途上国の人たちがつくった製品を、先進国で販売することで、途上国の人たちの自立を支援するのが目的」である。
 「売れそうな物がある。どこで生産すれば安くできるか」ということで、日本よりも中国だ、ベトナムだと、安い人件費をねらい途上国でつくった製品が、日本の市場に多く出回っている。しかし、前述のフェア・トレード運動とは、考え方の出発点に根本的な違いがある。
 協会兵庫の事業活動の位置づけ、運営方法と類似点のある運動を知り、私の研究・実践課題が一つ増えた。

2001.12.15 第118号
運動と商取引のミスマッチ
 10月、ある労組の大会議案書を、協会兵庫で印刷した。受注から納品までの日数に多少無理もあったが、組合規約に定められた日数を守るため、予定通り納品。運動をアシストする協会の役割を果たせ、ホッと一息。
 納品から2日後に電話があった。「部数が多い、最終部数を、お互いに確認してなかった思う。お互いにということで、紙代だけでも安く・・・・」という内容だった。私は「お互いに」という言い方が気に入らなかった。一般的な商取引なら値引交渉として許せる範囲内のことであるが、機関紙協会は、機関紙活動の一環として、共に運動をつくりあげる立場で印刷物を受注している。現象的には、印刷物の受・発注という商取引だが、本質的には、共に運動に参加し、広げる役割を果たしているのが協会の事業活動である。「最終部数を確認しなかった当方にも責任はあるが、財政的にも苦しい時なので・・・・」と言って欲しかった。共に闘う仲間だから。

2002.1.15 第119号
21世紀は、個人発行の機関紙がさらに増える
 パソコンの普及とインターネット情報網の拡大・拡充にともない、個人のホームページ開設が急増している。
 機関紙とは「コミュニケーション・情報発信の手段であり、多種多様な形態がある。新聞・雑誌に限定されるものではない」言葉も機関紙の一形態で、言葉は機関紙の原点である。
 このような視点から考えると「ホームページは、インターネット時代にふさわしい機関紙」の形態であり、機関紙そのものである。
 私たちは「機関紙は、政党や団体などの組織が発行するもの」という概念でとらえてきた。この概念は一般化し、現在では固定化している。
 しかし、政党や団体など組織は、個人の集合体として構成されているもので、構成員個々が情報発信・コミュニケーションの手段としての機関紙を、本来的に権利として所有しているのだ。
 今や、個性尊重の時代、機関紙の発行主体も、組織から個人へ移行しつつある。

2002.2.15 第120号
一時代の終焉は、新しい時代の始まり
 神戸を発祥の地とするスーパー・ダイエーが経営危機に陥っている。倒産すると社会的影響が大きいと、再建のために公的資金投入まで取り沙太されている。
 このダイエーとしのぎをけずり、生活協同組合という看板のもとに、店舗方式販売法を展開、日本一の巨大生協になったコープ・こうべも経営的に苦しいらしい。
 高度経済成長期の大量消費時代に拡大した、薄利多売のスーパー商法を巧みに取り入れ、「1人は万人のために、万人は1人のために」という生協運動とドッキングさせた、コープ・こうべの経営手法は、注目に値する。同時に、「神戸の消費者運動の芽を摘み、住民運動不毛の地にしたのは、コープ・こうべである」と評する意見も看過することはできない。
 スーパー・ダイエーもコープ・こうべも共に経営難になっている。一時代の終焉だろうか。
 神戸で、住民主体の新しい運動が始まる前兆かもしれない。

2002.4.15 第122号
取材は、する方が楽しい
 『赤えんぴつ』『神戸からのレポート』を出版し、何回か取材をうける経験をした。
 何日か前に連絡があり、取材をうける日時を約束して、当日を待つ。「どんな記者だろうか」「どんな質問をされるのだろうか」と、何となく気になり、気分的に落ち着かないものがある。
 どちらかというと、取材する立場が多い私。取材対象者を選び、予備取材をする。この段階で、記事はある程度でき上がっており、事実確認のため取材対象者に会う。予備取材で入手している事実の確認作業を進めつつ、予備取材では入手できなかった新事実を発見する。ある程度でき上がっていた記事の書き直しをすることも度々あるが、苦にはならない。「未知の世界に踏み入り、それまで知らなかった事実を知り、自分の視野を広げることのできる取材活動」の楽しさの方が勝っているからだ。
 これまでの私は、取材をうける人の気持ちにまで、思いが及ばなかった。以後気配りに心がけよう。

2002.5.15 第123号
ますます重要!読者が主人公の機関紙活動
 機関紙協会は「みんなでつくろう みんなのしんぶん」というスローガンで、読者が主人公の機関紙活動をすすめている。この活動は、個人主義が進行し拡大する傾向の現在、さらに重要性を増し、輝いてきた。
 集団で群れ、集団で行動することに安心を見い出し、自己主張をおさえるのが日本人の特性とされていた。最近、個性尊重が強調され広まるに従い、個人の発言力は強まり、個人発信の情報量も増加。反面、個人の組織離れも急速に進んでいる。
 この傾向を直視して言えることは、「個人の意識の変化に対応できない組織は、衰退・消滅する」ということである。
 従来型の組織運営(上意下達式)では駄目。人間が中心(主人公)の組織運営のできる組織は、次代まで生き残れる。民主主義を徹底しなければならない。
 そのためには、読者が主人公の機関紙活動を展開すること。現に展開している組織は、活気があり、組織拡大も前進している。

2002.6.15 第124号
第3・第4種郵便は、言論の自由を保障する制度
 定期刊行物や通信教育教材など公共性の高い郵便物を、割引料金で郵送する第3種・第4種制度があり、多くの機関紙が活用している。
 郵政事業庁が、来年度から公社化されるのにともない、この割引制度が廃止されようとした。広範な団体の要請運動の結果、「制度継続」として郵政公社でも維持されることになったが、将来的な保障はない。
 国鉄の民営化のとき、JR各社は発足直後に相次いで、赤字不採算路線を廃線としたが、同じことが郵便の分野でも引き起こされる危険性は十分にある。
 「定期刊行物を安くあまねく普及できる割引制度は言論を保障し、民主制度の根幹をなすものです。諸外国はどこでも定期刊行物の割引制度をもち補助金制度があります。日本だけが補助金制度がありません。」(「連絡会議」事務局ニュース・No.4)とあるように、補助金制度の新設、制度の完全保障を求める運動が重要である。

2002.7.15 第125号
運動の前進を阻害する「安さ・便利さ」偏重
 「戦争と虚偽の宣伝とたたかい、県民の生活を守るために、宣伝戦線の統一をめざし」て活動している機関紙協会兵庫には、目的を同じくする政党の県・市会議員団がいくつか加盟している。
 機関紙協会兵庫は、前記目的を達成するため、「活動を面的・量的に拡大する必要があり、運動の一環として事業活動(印刷業)を営んでいる」ことは繰り返し、私が主張してきた通りである。
 2002年度定期総会の記念講演「安いだけで買っていいのだろうか?−生産の背景を考えよう」というテーマで、フェア・トレード(公正貿易)運動を取りあげたのは、「安い・高い・便利性」だけを判断の基準にする傾向を強め、低迷している県内の革新運動に対する警鐘でもあった。
 ある議員団(協会兵庫会員)の印刷物を受注している業者が居る。業者は、安さを求めて県外で印刷、低価納入しているらしい。これも「県内の民主的宣伝戦線統一の前進を阻害する」一例、と私は見る。

2002.8.15 第126号
マスメディアに匹敵する、機関紙の発行部数
 先日、灘革新懇の学習会で「今日のマス・メディアの問題点」というテーマで、人生の先輩達を前に話をした。
 その準備段階で、機関紙の実勢を知りたくなり、協会本部へ「今年の新年号コンクール参加紙・404紙の総発行部数はいくらか」と問い合わせたら、「発行部数をきちんと書いているところが少ないが、書いてある部数と推測部数を加えると400万部超までは計算できる」という返事だった。これに、「赤旗」の発行部数200万部を加えて、機関紙の発行部数600万部が確実に計算できる。
 全国紙の発行部数の概数が、朝日・800万、毎日・400万、読売・1000万、サンケイ・200万と聞いている。これと機関紙の発行部数を比べても、決して見劣りのする数ではない。
 昨今、マス・メディアの問題点が指摘され、この問題点を口実に、「メディア規制法」が国会審議される事態にまで至った。「言論の自由を守る」ために、機関紙の果たすべき役割は大きい。

2002.9.15 第127号
メディアの起源
 群れる習性の人間にとって、コミュニケーションは本能(質)的なものである。
 「穴居に数人ないし、数10人で起居、自然の果実を採取、人間以外の動物を捕らえて食し」ていたのが、原始人の生活の一般的理解である。
 経験を重ねるごとに、生活範囲は徐々に拡大、集団も大きくなり、必然的にリーダーが誕生、集団の支配者となる。
 支配者は、集団を守るために、山の向こう、海の彼方の、外敵の動静を事前に知り、素早く集団の仲間に知らせ、敵の攻撃に備える必要があった。ここに、「情報を集め、素早く知らせる」という今日のマス・メディアの起源を視る。
 一方、一般民衆の日常は、自然災害から身を守るため、危険を知らせあったり、獲物のありかや、捕獲・生産方法等を、仲間や子孫に教えたり、伝えることが中心だった。そこでは、スピードや量よりも、正確さが要求される。私は、ここに機関紙の起源を視る。

2002.10.15 第128号
直接的メディア・機関紙は人間的
 原始人にとっての環境は、手に取れるものか、目に見えるものだけだった。その後、徐々に拡大していったが、ごく小さな集団や集落にすぎず、人口もわずかだった。そこでは、誰かが少し大きな声で叫べば、すぐに全体に知れわたる状態で、コミュニケーションはすべて直接的であった。このような場合、相手の反応次第で、伝える側の態度はいかようにも変えることは可能で、相手に理解されないと思えば、受け容れられるように工夫することができる。
 この口頭による、直接的コミュニケーションは、現代のマス・メディアのように書いた言葉・印刷された活字、話すだけで決して受け手の話を聞いてくれないラジオ・テレビに欠けている、人間性に満ちた特殊な側面を持っている。
 この特殊な、人間的側面を受け継いでいるのが機関紙である。「人と人のつながりを強めるのに役立つ、必要なメディア・機関紙」のゆえんがここにある。

2002.11.15 第129号
人類が集団生活を始めたとき、機関紙が生れた
 日本の機関紙の原点としては、明治政府が最初の広報誌として発行した「太政官日誌」、あるいは、労働運動発生以前の大衆闘争だった、自由民権運動の機関紙・誌をとる考えもある。
 機関紙関係者の多くは、1897年(明治30年)日本ではじめて発行された労働組合機関誌「労働世界」(労働組合期成会)から出発している。
 これらの考え方の基本はいずれも、「機関紙・誌の発行主体が組織(団体)で、文字で記されたもの」であることを前提としている。
 私は、機関紙の「最小の発行主体は個々人であり、言葉(会話)も、インターネット活用のホームページも、機関紙の一形態」と位置づけている。そして、一つの組織(団体)の中に、複数の機関紙が存在し、それらの機関紙が縦横無尽に飛び交ってはじめて、組織内の民主主義が成立する。
 このように考えると、機関紙の起源も原始時代まで遡る必要がある。

2002.12.15 第130号
文字と人類のかかわり
 人間の本能(質)的コミュニケーションを、より確実にし、社会生活を充足させるため、人類は幾世紀にも亘って経験と創意を重ね文字を創った。
 文字が比較的完全な形に整えられ、確実にマス・コミュニケーションの機能として役立てられるようになったとき、その文字を一方的に役立てて使用したのは、ごく一部の支配階級の人間だった。
 支配階級は文字すなわちマス・コミュニケーションを支配することによって、民衆と土地、さらに一国を支配することに成功した。一筆の高札、一通の通達ですべてが支配できたのである。
 ほとんどの民衆は、文字を書くことを許されず、書かれたものを読むだけだった。人類は、苦心を重ねて文字を発明、その文字によって自らの生活を向上させる条件があったにもかかわらず、特定の人間以外は逆に、その文字によって束縛・拘束をうけたことは、歴史をみれば判然とする。日本で、文字が一般大衆化するのは、江戸時代の寺子屋以降である。

2003.1.15 第131号
「もの言えぬ、 言論が死んだ時代」前夜だ
 1987年に発生した朝日新聞阪神支局襲撃事件は、昨年5月3日で時効となった。
 事件発生時の支局長だった大島次郎氏は、「この事件の犯行声明を出した『赤報隊』は『朝日は50年前にかえれ』といっていた。1987年の50年前といえば、1937年の廬溝橋事件発生。前年の36年には2・26事件。翌年の38年は国家総動員法と戦争態勢ができあがり、もの言えぬ時代、言論が死んだ時代に戻れとの主張」だと話し、現在は1930年代後半寸前のような危機にあると情勢分析した。
 北朝鮮の拉致事件を報道するマスコミの現状について、「帰国した5人中心の報道で、特定政党・新聞へのバッシングなどに利用し、本来の国交正常化の実現、東アジアの安全・非核化、植民地政策の総括、援助などは影が薄くなっている」と指摘した。
 洪水のように提供される情報の中から本質を見極める力を養うため、今年こそ「メディア・リテラシー研究会」を発足させたい。

2003.2.15 第132号
バリアフリーは、戦争の遺産?
 我が国日本は、少子化が急速に進み、高齢社会になりつつある。それにつれ、住宅のバリアフリー(段差解消)化も増加、自治体等の住宅融資制度にも、バリアフリー特別融資枠が設けられている。
 バリアフリーについて調査した知人からの聞きかじりだが、「住宅のバリアフリー化は、アメリカの黒人家庭から始まった」そうである。
 アメリカは、長期間ベトナムを侵略、戦争を続けた。その間、前線に送られた多くの兵士が負傷し、障害者になった。人種差別の著しいアメリカでは、危険度の高い戦場の最前線に送られる兵士の多くは、黒人兵だったという。当然の結果、戦場で負傷し、障害者になった兵士の多くは黒人だった。
 ベトナムの戦場で負傷し、障害者になった兵士は、アメリカ本国へ帰国する。障害者が生活しやすいようにと、住宅のバリアフリー化が進んだ。福祉的側面からのみ見ていた問題に、意外な事実があったことを知った。

2003.3.15 第133号
北風から太陽へ
 「ある冬の日、マント(外套)をまとった旅人が行く。『北風』と『太陽』は、その旅人にマントを脱がせる競争をする。先攻は北風、ビュービューッと強く吹きつける。強く吹けば、吹くほど、旅人は強く、強くマントを身に引きつけ離さない。北風は、ついに諦めた。後攻は太陽、雲の合間から徐々に顔を出していく。旅人は、少しずつマントのヒモを緩める。太陽が完全に姿を現すと、旅人は暑くなり、マントを脱いだ」。おなじみの童話である。
 私たち機関紙関係者の多くは、明治以降の長い年月にわたり、ときの支配者を批判する『北風型』の機関紙活動を繰り返し、一定の成果をあげてきた。組織中心で、啓発・啓蒙型の機関紙が読者に受け容れられた時代はそれでも良かった。
 いまは、組織中心から個人重視へと、読者の意識が変化しつつある時代だ。「読者が主人公の機関紙運動」をすすめるために『太陽型』の機関紙活動が求められている。

2003.4.15 第134号
戦争のためのペンを取るな!
 私は、テレビのニュース報道はよく見ていた。アメリカがイラクへの攻撃を開始して以来、ニュース報道を見ることが少なくなった。
 アメリカの一方的な攻撃の模様が、実況中継のごとく映し出されるばかりである。攻撃され、多くの死傷者が出ているであろう、イラク国民の生活状況は、全く報道されない。報道が一方的だ。多くの報道関係者が従軍している。衣・食・住を提供され、身の安全もある程度アメリカ軍に保護されている報道関係者に、イラク国民の視点で報道してくれと望んでも無理であろう。
 過去の戦争の、反省のうえにたち、「戦争のためには2度とペンをとらない」と誓ったジャーナリストたち、「戦争はすべて悪い。早く終結せよ。多くの人命を守るために」と健筆をふるって欲しい。いまが、その時である。マスコミがだめなら、せめて機関紙ジャーナリストだけでもと期待している。

2003.5.15 第135号
世界の宝「日本国憲法」
 都知事に再選された石原慎太郎氏は、「石原中尉、唯今、原隊に復帰しました」と、都庁で挨拶したという。軍国少年さながらのセリフである。公明党の冬柴幹事長は、反戦運動は「利敵行為」と、言ってのけた。
 こんな恐ろしい人たちが、日本の政治の中枢に座っている。危険きわまりない実態であることに、どれだけの日本人が気づいているだろうか。多分、少なからぬ人たちが気づいていると思う。だからこそ、「イラク戦争に反対」する声が、またたく間に国内を席巻したのだ。
 「戦争反対!」が圧倒的国民の声である。しかし、日本の政府は、これに逆行して、戦争できるための体制をつくるために「有事法制」を成立させようとしている。小泉首相は、国連よりも「日米同盟が大事」であると明言している。アメリカの戦争に協力するための「有事法制」であることは間違いない。
 恒久平和を願い、戦争放棄を明記した「日本国憲法」の理想と目的を達成することこそ大事だ。

2003.6.15 第136号
危機的状況です。助けてください!
 機関紙協会兵庫の運営費は、会費と事業費で賄っている。会費は、機関紙と宣伝や教宣調査資料集などの、資料誌提供費に相当する額である。
 事務局員の人件費を含む活動資金は、すべて、事務局(兵庫機関紙宣伝センター)が営む事業(印刷業)で捻出している。
 長びく不況と運動低迷の影響で、兵庫の民主的印刷・宣伝物が激減、兵庫機関紙宣伝センターの経営は危機的状態に陥った。
 印刷・宣伝物の受注が回復しないため、資金ぐりが悪化、消費税等の滞納額も増え、放置していたら「差し押さえ」が発生しかねない状態になり、事務局の人件費を削減し、納税にまわすことにした。人員整理を避け、一率賃金カットと勤務時間の見直しをしたのである。
 兵庫の労働運動・民主運動をすすめるために絶対必要な「兵庫機関紙宣伝センタ−」を守るため、事務局は一丸になって頑張ります。すべての印刷・宣伝物は「きかんし協会」へ発注してください。

2003.7.15 第137号
日本国憲法は、運動とたたかいの成果である
 機関紙協会兵庫は、昨年度の定期総会で、「安いだけで買っていいだろうか―生産の背景を考えよう」という提起をした。つまり、現象面だけでなく、物ごとの本質を見極めて判断しようということである。
 これを、日本国憲法に当てはめてみる。
 「現日本国憲法は、戦後の混乱のなかで、アメリカ・占領軍に押しつけられたものである。戦後50年を経た日本の現状に合うように見直し、自主的な憲法にしなければならない」という改憲論がある。これは、現憲法の成立過程を現象面からのみ捉えた、一面的な主張である。
 戦前、治安維持法のもと厳しい弾圧の嵐が吹き荒れていたが、共産党などが、戦争に反対し、平和と民主主義を求めてたたかっていた。連合国(国外)でも、戦争・軍国主義に反対する世論が高まっていた。これらの要求が、ポツダム宣言や日本国憲法に盛り込まれた。現憲法は運動とたたかいの成果である。これが本質だ。

2003.8.15 第138号
手書き新聞の魅力
 「きかんし」はコミュニケーションの手段である。言葉・文字・インターネットなど、多種多様な形態がある。
 近年、パソコンの急速な普及にともない、パソコンでつくる新聞(機関紙)が増えている。「手書き新聞がいい、人の温もりが伝わり、安心感をおぼえる。手書きでの発行を続けてほしい」という声が圧倒的に多い。手書きの機関紙から、人の温もり、安心感が伝わってくるのは「なんでだろう?」と考えてみた。
 小学生に「誰と居るときに、安心感がありますか」という質問をしたら、回答のトップは「お母さん」「母親」だという。
 コミュニケーションの手段として、最も手軽なものは言葉である。次は文字である。文字が創造されたときは、当然のことながら`手書きaであった。手書き文字は活字の`母なる存在aである。
 人間、「母なるもの、聖なるもの」に接したときに安心と温もりをおぼえる。手書き新聞にはそういう魔力があるのだ。

2003.9.15 第139号
パソコンの向こうに人が居る
 最近、パソコンで機関紙(新聞)・ビラをつくる人が急増している。協会主催の機関紙学校でも、定員オーバーになるほど盛況なのは、パソコンコースである。
 「パソコンで新聞をつくるとき、苦労して時間がかかるのはどういうところですか?」という質問をすると、初心者はパソコン操作を憶えることに必死で、他のことは眼中になく、一人その世界に没頭しているので無反応。ベテランの人たちほとんど全員、口を揃えたように「文章をつくること」と返事が返ってくる。この声をうけて記事の書き方コースを復活したのだが…。
 機関紙は「コミュニケーションの手段であり、言葉・文字・インターネットも、その一形態であるから、言葉の向こう、新聞・ビラの向こう、パソコンの向こうには、必ず人が居る。その人たちとコミュニケーションするのに役立つのが機関紙である。「人と人をつなぐのが機関紙」であることを忘れてはならない。
 手段と目的をはっきり見極めよう。

2003.10.15 第140号
自由・民主主義・機関紙
 必要に応じて、自らの意志で、思いのまま、好きな形態で発行できるのが機関紙である。「こういう内容で、こういう形態で発行しなければならない」という制約はない。自由自在、千差万別、多種多様、人の数以上に存在するのが機関紙で、民主主義の形成に役立っている。
 人それぞれに個性があるように、機関紙もそれぞれ個性的である。発行者(組織)の実態や考え方が機関紙に反映されるから、個性的にならざるをえない。
 画一的でなく、個性豊かな機関紙が無数に発行され、自由に飛び交い、コミュニケーションできる社会こそ、自由社会である。言葉・活字・インターネットなど、機関紙の形態や形式は問わない。発行者の自由意志で選択したらよい。
 このように、機関紙は本来的には自由なものである。が、現実的には、固い、窮屈なイメージがつきまとう。発行者のほとんどが封建的な実態・考え方の持ち主?その反映だから?

2003.11.15 第141号
CD・VHSも、機関紙の一形態だ
 「NO WAR−有事法制は戦争する国への一里塚」というCD・VHSの企画・制作に関わった。
 有事法制が成立したが、まだ先がある。憲法を改正し、徴兵制を施いて、戦争できる国の体制が確立する。現在は、その過程であり、私たちの運動と世論の盛り上がりで阻止できる。若い人たちを中心に、新しい形の運動が生まれつつある、そこに未来への明るい展望を見い出すことができる。ということを訴える意図で企画・制作に着手。10月末に完成し、現在普及中である。
 活字離れが進み、機関紙はもちろん、出版物の部数低迷は深刻である。ならば、機関紙のビジュアル化の、試みの一環として、映像による宣伝物作成にとりくんだのである。出来上がりは上々、受け手の反応が気になるところだ。「主人公は読者」という機関紙活動の基本は忠実に守っているので、「押しつけ的な内容ではない」と自負している。

2003.12.15 第142号
「私的機関紙論」ご一読ください
 協会兵庫のホームページで、私の「私的・機関紙論と書く技術」というのを公開している。
 機関紙を介在にして、人の輪を広げ、人と人のつながりを強めることを基本に、機関紙協会の基本方針を面的・量的に拡大するための実践としての事業活動を進めるなかで、私自身が経験したことを中心に記録し、機関紙協会兵庫事務局の次世代へ確実に継承する目的で整理したもので、あくまでも内部的な資料のつもりだった。
 今後の機関紙活動でさらに肉付けする必要があり、現時点では、機関紙論として完成されたものではなく、未考証な部分が多い論文である。
 より完成度の高い機関紙論にするためには、多くの人たちに読んでいただき、意見を採り入れる必要があると思い公開したのである。ぜひ、疑問・質問等お寄せいただきたい。
 日常生活に必要不可欠なコミュニケーション手段・機関紙の新たな位置づけが必要だと考えている。

2004.1.15 第143号
価値判断の基準を改めよう
 機関紙(きかんし)づくりは、人づくり。人を育てるのには、手間ひまがかかり、金もかかる。簡単で安上がりな方法はない。つまり、一人前の人間に育てるためには、時間も、金もかけなければならない。コスト的には高コストなものである。機関紙協会兵庫は、そういうことを事業として営んでいるのだ。
 しかし、世間一般の価値判断の尺度・基準は、「高いか、安いか」「便利か、不便か」というコスト論が大勢を占めている。学校教育も、そういう流れに沿っているから、コスト論的判断基準を持った人間が、次から次へと育ってくる。民主的・革新的といわれている人たちも例外ではない。当然のこととして、コスト論的な判断基準は、民主運動・革新運動の分野にも徐々に浸透し、拡がっている。歯止めが必要だ。
 人を大切にする社会実現のため「コスト論的判断基準を改めよう」と、事業展開する機関紙協会兵庫は、貴重で崇高な存在。守るに価する。

2004.2.15 第144号
「メールと、人と人のつながり」を考える
 私は、パソコンが苦手な部類の人間だが、最近メールでのやりとりが増えた。手軽で、早くて、便利だから、私のようなパソコン苦手人間も、世の流れに従わざるをえない。
 面と向かって、直接相手の表情を読みとり、息づかいを感じることで人間的温もりのある付き合いができると信じ、そのようなオルグ活動を続けてきた私にとって、メールでのやりとりで事が足りる。それだけで充分だとする流れには、納得できない部分がある。人と人のつながりを強めるためには、人と人が直接会う必要がある。「パソコンの向こうの人同士が、直接会い、会話することがなければ、真の人間的つながりは生れない」と信じてやまない私は、古いタイプの人間だろうか。メールでやりとりしながら、そのことが常に頭から離れない昨今である。
 機関紙をつくること、発行することが目的ではいけない、それを介在に人間の輪がどれだけ拡がったかが大事である。そして、人が育てば、言うことなし。

2004.3.15 第145号
機関紙は民主主義の基本
 「NO WAR」「視る」の2つの映像版・機関紙を現在普及中である。「機関紙とは、コミュニケーション手段の原点で、個々人を最小の発行主体とし、多種多様な形態がある」という私の持論の具体的実践として制作にとりくみ、機関紙協会兵庫の事業活動の一環として普及を推進している。
 組織(団体)の構成員の一人の意見(発案)で制作へ向けてスタートしたものが、進行過程で状況を見ながら意見を交換し、修正を加えつつ完成させたのが、2つの映像版・機関紙である。つまり、機関紙協会兵庫という組織内に存在している無数の機関紙が自由に発行され、飛び交い(意見交換)、最終的に組織発行の機関紙として「NO WAR」と「視る」が完成したのである。
 2つの映像版・機関紙は、予想以上の好評を得ている。「押しつけでなく、客観的な仕上がり」だという評を聞くにつけ、「機関紙は民主主義の基本である。それを貫いただけ」と、一人悦に入っている。

2004.4.15 第146号
要注意!!マス・メディアの情報
 日本新聞協会が、全国の15才から69才の男女6000人を対象に行った「2001年全国メディア接触・評価調査」の結果によると、メディアに接触している人の割合は、テレビ99・6%、新聞94・1%、ラジオ64・9%である。そして、テレビを毎日見る人は92・3%、新聞を毎日読む人は69・6%、ラジオを毎日聴く人は23・3%となっている。同じ調査で、どの情報内容が信頼できるかという質問に、最も信頼できるがテレビ(NHK)55・0%、次に新聞42・8%、テレビ(民放)12・6%の順である。
 マス・メディアの、世論とか国民の意識への影響力の大きさが、数字的に裏付けられており、非常に興味深い結果である。
 本多勝一氏(ジャーナリスト・元朝日新聞記者)は、一年間のイラク戦争報道を「NHKの場合、ニュース番組を見た方はご存知のとおり、アメリカ人従軍記者と同じ視点で報ずるばかり。第二次大戦でアジア侵略中の新聞やラジオと変わるところはない」と言う。要注意!!だ。

2004.5.15 第147号
史(私)的 コミュニケーション論
 「群れる習性の人間が社会生活を営むうえで、コミュニケーションは必要不可欠な手段である。すべてのコミュニケーション手段の基本は機関紙で、機関紙の最小の発行(発信)主体は個人である。言葉をはじめ、文字媒体、インターネットを活用するホームページ等にいたるまで、機関紙の形態は多種多様にあり、今後さらに増加する」というのが私の持論だ。
 持論をさらに発展させて、「支配者のコミュニケーション手段が進化・発達したのがマス・メディアで、一般民衆の日常生活の中で営々と受け継がれてきたのが、コミュニケーション手段の基本・機関紙である」と位置づける。
 なぜならば、「社会は『支配・被支配』の力関係で成立。この関係を繰り返して発展してきた」ことは衆知の事実であり、時代と共に発達したコミュニケーション手段(マス・メディア)は、常に支配者が占有使用。一般民衆はやや時代遅れの手段(機関紙)でコミュニケーションしてきたからだ。

2004.6.15 第148号
憲法を知らせることが、改憲阻止の力になる
 小泉首相は、自衛隊のイラク派遣を正当化するために、日本国憲法前文の一部を引用した。
 日本国憲法は、小学校高学年の授業で若干教え、中学・高校では教えないという。理由を聞くと、中学の教師は「受験に必要ないから」と答えた。学校のカリキュラムは受験本位で、受験に必要のないものは省かれているのだ。
 日本国憲法の精神と中身を知らない国民が多いのは、学校教育に問題がある。つまり、政府・自民党の教育政策(受験本位で、物を考えない国民を大量につくる)が長い年月をかけて効果をあげているのだ。小泉首相はそのことに確信を持っているから、「国民の多くは憲法を知らないから大丈夫」と、図々しく憲法前文の一部を引用し、自衛隊のイラク派遣を正当化したのである。
 私たちがしなければならないことは、日本国憲法の精神と中身を国民に知らせること。それが憲法改悪阻止の力になる。「改憲反対」を声高に叫ぶだけではダメ!

2004.7.15 第149号
親(犬)バカしています
 6月2日、物静かでおとなしい、キレイな顔の娘が、家族の一員になった。シェルティーとコーギーの血が混じった雑種犬を、神戸市の動物管理センターから譲り受けたのである。動物病院で健診を受けて、3才であることが判明した。引き取り手がなかったら、ガス室に送られる運命にあった娘だけに、不憫で、可愛さもひとしおである。
 室内犬だが、トイレは戸外でするように訓練されており、朝・夕の散歩が欠かせない。朝は私の担当で、「ナナ」と命名した愛犬と、早朝散歩をするのが日課となった。私は、医者から「健康のため運動しなさい」と言われているので、最低40〜50分は歩きたいのだが、ナナは30〜40分の散歩で充分満足しているようである。毎朝、「もう少し歩いてくれる、ダメ?」と交渉しているがなかなか難しい。イヤだと決めたら、立ち止まって動かない。抱っこしなければならないのだ。中型犬なので、そこそこの体重があるから、それも難儀なことである。

2004.8.15 第150号(最終)
所詮、独り相撲だったのか?
 今年12月に開く「きかんしセミナー兵庫」の記念公演は、ファゴット演奏を中心にしたコンサートである。
 「機関紙には色々な形態がある。言葉あり、活字あり、インターネットありだ。演劇もその一つで、一人芝居も採用したことがある。音楽という形態の機関紙で訴えるのだから、きかんしセミナーで音楽演奏をしても、何の違和感もない」と話した。が、「それはこじつけだ」と一蹴された。
 「マスコミ(一部ミニコミも含)は、間接的コミュニケーション手段だ。直接的コミュニケーション手段の総称が機関紙で、多種多様な形態がある。ゆえに、機関紙がコミュニケーション手段の基本・原点であり、機関紙なくしてマスコミ(一部ミニコミ含)は存在しえない」というのが私の持論で、震災後数年来主張しているところだ。
 だが、身近にいる人に「こじつけ」と言われ、理解されていないことが判明。持論を普遍化するために書いてきた「赤えんぴつ」を続ける気力が萎えてきた。

第3部:付録
とうふ連

<サークル活動での出会い>
 1969年、私は21才のとき、兵庫印刷出版産業労働組合(兵庫印労)という、個人加盟労働組合の組合員になりました。
 当時、私たちの組合活動は、「楽しく、仲間を増やしたい」という方針で、サークル活動が中心でした。私たち兵庫印労では「もぐら」とい名前のサークルをつくり、月1回の例会(喫茶店でダベリング)で、ハイキングやピクニック、山歩きや川遊び、ソフトボールやバレーボール大会、夏はキャンプに冬はスケートなどを企画して、とりくんでいました。例会や、イベントの参加者は印刷関連業に働く男性中心でした。若い男性の、当然の要求として「女の子と付き合いたい」というのがあります。この要求を無視することはできません。
 奥さんが、小児開業医院で看護婦をしている兵庫印労の組合員が、「看護婦さんたちが中心になってつくっている『雑草』というサークルがあり、『もぐら』と同じようなとりくみをしている」という情報をもってきました。
 この情報を聞いて、私たち兵庫印労の若手数人が早速行動を開始、妻帯組合員の奥さんに、サークル・雑草のリーダーを紹介してもらい相談しました。結果、2〜3ヵ月に1回の割合いで、「雑草」と「もぐら」の両サークル合同で、イベントを企画することになりました。
 合同のイベントに何回か参加するうちに、私はサークル・雑草から参加している「丸ちゃん」と呼ばれている丸山夏美さん、目のクリッとした女の子が気になる存在になってきました。皆と行くハイキングで顔を合わせ、たまに行く、観劇(労演の例会)の時も出会うことがあったのです。

<「丸ちゃん」から「夏(なっ)ちゃん」へ>
 私が23才の夏、岡山と兵庫県の県境にある日生諸島へ海水浴に行く、土・日を利用した合同イベントがあり、私も、「丸ちゃん」も参加しました。土曜日は、日生の国民宿舎で泊まり、翌日の日曜日は、連絡船で太多府島という島へ渡り、海水浴をしました。日曜日の朝、国民宿舎から船乗り場へ行く途中、天然記念物の「カブトガニ」を見ました。水族館以外では見たことがないので、今でも鮮烈に憶えています。
 大多府島は、周囲7q位の島で、「六角大井戸」「元禄防波堤」「自然研究路」「勘三郎洞窟」などの観光スポットがあります。島での海水浴も終わり、夕方帰りの船を待つ間の船着場で、私は「丸ちゃん」と隣り合わせになることができました。彼女は、観光スポットの1つ「勘三郎洞窟」を見ることができなかったのが、心残りだと言いました。
 日生の海水浴から帰った数日後の夜、私は、JR神戸駅近くの医院で働き、寮住まいの「丸ちゃん」に電話を入れました。「今度の日曜日、2人だけで、大多府島へ行こう。勘三郎洞窟を見よう。早朝○時、神戸駅発の快速電車の○両目に乗っているから、君がこなかったら、僕は1人で行く」と、強引に誘いました。
 三宮から電車に乗った私は、彼女が神戸駅から乗ってくるかどうか不安でした、胸はドキドキ、頭は真っ白でした。電車が、神戸駅に着き、ドアが開きました。やがてドアが閉まり、電車が発車しました。「あ〜〜ッ、来なかった」と諦めかけた途端、前の車両との連絡ドアが開き、彼女が私のいる車両へ入ってきたのです。大声を出して、跳び上がりたいくらい、嬉しかったです。
 早朝の待ち合わせだったのに、台所を自由に使えない寮生活の彼女が、2人分の弁当おにぎりを用意してくれていました。おにぎりの中には、梅干が入っていました。私は、梅干は嫌いでしたが、お茶で流し込みました。
 それから、私たちは、サークルのイベントの日以外にも、2人だけで会うようになりました。名前の呼び方も、「丸ちゃん」から、彼女の子どもの頃からの呼び方「夏(なっ)ちゃん」「夏美さん」に変わっていきました。
 1973年、私たちは結婚しました。翌1974年長男・一孝、2年後の1976年長女・靖子が誕生しました。

<育児・家事、すべて女房任せ>
 私は、1948年生れ、いわゆる「団塊の世代」といわれる年代です。高校時代から、能力別教育という名目で、成績順にAクラス・Bクラスに分けられて、競争させられました。学校を卒業して、就職した企業でも競争は激しく、全般的に「猛烈社員」という言葉が流行するぐらい、競争の激しい社会でした。高度経済成長期の「猛烈」から低成長期の「リストラ」、いつになっても、世代間での生き残り競争が激しい、私たち・団塊の世代です。
 1979年、私は機関紙協会兵庫の事務局員になりました。入局のその日から、夜となく、昼となく、日曜・祝祭日も関係なく、オルグ(営業)活動に明け暮れました。
 機関紙協会兵庫では、事務局員の人件費や行動費用すべて、事業活動(印刷業)で捻出しています。印刷売上実績の確保は、私をも含む事務局員の賃金保障に直結しています。
 私の機関紙協会勤務に、あまり乗り気ではなかった女房の手前もあり、生活資金の確保は最低条件です。賃金確保のためもあり、私はオルグ活動に奔走しました。
 労働組合・民主団体など、機関紙協会兵庫の得意先(主に会員団体)主催の、学習会や集会は、平日の夜や、土曜日の午後、日曜・祝祭日の開催が多かったのですが、ほとんど参加しました。それに、機関紙協会兵庫が主催する機関紙づくり講座・学校もあり、講師や裏方として参加しました。
 それでも、事務局長を引き受けるまでの数年間、平日の昼間は割と時間の融通が利きましたので、子どもたちの学校の授業参観や、発表会などは行くことができました。授業参観の後に、担任を囲んで懇談会がありましたが、父親の参加は私だけということが結構ありました。
 懇談会に参加している母親のほとんどが、「子どもの頃の、学校の成績はオール5だった」ような口ぶりで発言するのには閉口しました。そのような母親たちの前で私は、「子育ては初めての経験で、何もわかりません。子どもの成長とともに、私たち夫婦も親になっていくつもりで、子どもに接しています」と発言しました。
 女房の提案で、長男が小学校を卒業する頃まで、子ども達と交換日記を続けました。長女が幼稚園に通っている頃、たどたどしい文字で、「おとうさん、おそくかえって、しんどいときは、へんじかかなくてもいいよ、よむだけで」と書いてあるのを読んだ時は、感激で涙が出てきました。
 私は機関紙協会業務一筋、育児・家事のすべては女房任せの日々でしたが、子育てのことで、女房との間に共通の話題がありました。ついでに、私も職場のことを話題にすることが結構ありました。

<夫婦の会話が途絶える>
 1991年、私は機関紙協会兵庫の事務局長を引き受けました。私が事務局長になる数年前から、前事務局長の「今日食べるパンの話をしているのに、明日以降10年先の夢を語る的な協会運営」に対して、事務局員の不満が積もり、積もっていました。この不満を解消する意味もあって、私が後任の事務局長に選ばれたのです。
 事務局長の職を退いても、何らかの形で影響力を残そうと画策する前事務局長と、それを支援する一部役員、前事務局長を完全に排斥しようとする事務局次長、それに追随する協会事務局員、その板ばさみになった私のストレスは極限状態でした。
 ストレスが昂じた私は、左眼眼球内に水滴が発生し、瞳孔をさえぎるため、視界がぼやけるという「中心性網膜症」になりました。眼科医での治療の結果、症状は緩和されましたが、その後数年間、度々発症し悩まされました。1995年の阪神・淡路大震災発生以後、この症状は出なくなりました。震災からの復旧・復興業務に追われて、自分の体調を考えることなどできなかったのです。
 震災特需といっても良いくらい繁忙を極めた、機関紙協会兵庫の事業活動も一段落、急激に業績が下降し始めたころ、またも事務局内に不協和音が生じました。私(事務局長)と事務局次長(故人)の意見が、事あるごとに対立し始めたのです。
 協会の将来を見据えた、私の後任人事構想も、事務局次長につぶされ、協会運営にも支障が生じるようになりました。またまた、私のストレスは極限状態、1998年5月ついに、「急性胃腸炎」で倒れました。吐き気をもよおし、食欲は減退、点滴を打ちながらの執務となりました。現在でも、薬を服用し続けております。いつ再発するか不安で、薬を止めることができません。
 事務局次長をはじめとする数人の事務局員が退職し、事務局内のゴタゴタは落ち着きましたが、震災と不況のダブルパンチに見舞われ、低迷を続ける、機関紙協会兵庫の事業活動の建て直しは、遅々として進まず、困難な状態がいまだに続いています。
 事務局長就任の前後から、私は職場の話を家で全くしなくなりました。どろどろした内容で、楽しい話題ではないので私自身が、あまり口にしたくなかったのです。事情が複雑に絡み合っており、何も知らない女房や、第三者には説明しにくいのです。子育てや家事のすべてを引き受けてくれている女房に、それ以外の余計な苦労をかけたくないという思いが強くありました。子どもらも大学を卒業し、それぞれの目標を目指し、努力しています。親がとやかく言うこともありません。女房と私の間には、共通の話題がなくなり、最低限必要な会話以外は途絶えてしまいました。
 悪いことは重なるもので、女房も50才前後になり、更年期障害が始まるのと同時期でした。女房の体調は不良で、肉体的にも、精神的にも不安定な状態の日々が数年続きました。その間、私はなす術もなく、女房の愚痴を黙って聞き、堪えるだけの毎日でした。下手に反論や口ごたえをすると、女房の神経を逆なでし、さらにエキサイトした状態になるのです。
 そして地獄(私の感じ)のような数年が過ぎ、女房の更年期障害も峠を越え、精神的にも、肉体的にも安定してきました。女房と私の会話も徐々に回復、2〜3年前から、子ども達が学校へ通っていた時期のように、何でも話せる状態になりました。
 私自身の経験を通して、世の男性諸氏に告ぐ!貴方の奥さんが更年期障害になったら、「奥さんの言うことに絶対逆らわない、どんな理不尽なことでも、黙って聴く。嵐が過ぎ去るまで我慢して堪える」ことです。奥さんが更年期障害で苦しんでいる時には、「優しさと、思いやりのある態度で、奥さんに接し、励まし続けること」が大事です。
 女性の更年期障害は、人によって症状に軽重はありますが、私たち男性には想像も出来ないぐらい、苦しくて辛いもののようです。

<すべての父親・母親が幸福に>
 「粗大ゴミ」「濡れ落ち葉」「亭主元気で留守がいい」言われながらも、女房、子どもに媚びへつらい、自分の居場所をかろうじて確保している多くの父親たち。男尊女卑、亭主関白がまかり通っていた時代を、懐かしみ、羨ましく思っている男性は多いと聞くが、口に出して言う男性は、ほとんどいません。
 かくいう私がその典型で、家では居場所がありませんでした。仕事一筋、子育て、家事一般すべてを女房任せにしてきた「因果」と諦めてはいましたが、心中おだやかではありませんでした。
 「このままではいけない、何とかせねば」という思いは人1倍強かったのですが、元来が、不器用で口下手な私です。生れつきの性格は、生き方にも反映して、如何ともしがたいものです。
 1人では無理、それでも、「同じ思いを持つ男性が集まれば、何とかなるのでは?」との考えから、すべての父親、すべての母親が、幸福に暮らせる日が来るのを夢見て、「とうふ連(兵庫の闘う父親連絡会)」の旗揚げをすべく画策しました。

<いよいよきた、“トウフ連”の出番だ>
 第43回兵庫県母親大会(6月27日・神戸市立須磨高校で開催することが決まった)の第1回実行委員会(2/27・土)に、協会女性陣のピンチヒッターで参加。案の定、男性は私だけだった。
 子育て・教育問題、ゴミ・ダイオキシン・環境問題、戦争法(新ガイドライン)・平和問題等々、全体会・分科会の内容討議や申し合わせ事項の確認が進められた。予想以上の母親パワーを実感しつつ、数時間がアッという間に過ぎた。
 今年の第43回県大会では、「お父さんと一緒に考える、家庭での男女平等・民主主義の問題」という分科会を設けるという案も確認された。
 数年前の「きかんしセミナー兵庫」の交流会で産声をあげた“トウフ連(闘父連)”という会がある。母親大会に負けないくらいの「父親大会」を開くと意気盛んだったが、その後どうなっているのか。関係諸氏の奮起を期待したい。出番が来たようだ。(協会・畦布こと私) 1999・3・15

<歴史的な事業「父親大会開催」へ、とうふ連始動>
 母親大会に遅れること40数年。父親大会開催へのカウントダウンが始まったようだ。
 昨年結成された「とうふ連」は、今年の第44回県母親大会実行委員会への正式参加を認められ、市民権を得ることができた。これに気を良くしたとうふ連の面々、「来年こそ父親大会を開こう!と意気が上がっている」(関係者談)そうだ。
 6月11日県母親大会終了後、宝塚で開いた不定期総会で、父親大会開催をめざす役員を補充して祝盃。6月16日協会県本部総会終了後、神戸・三宮で突然開いた緊急臨時不定期総会で、開催の意志を再確認する盃を交し合ったらしい。
 父親大会の日程・内容・規模はこれから具体化していくようだが、「開催は間違いない」(関係者談)そうだ。
 協会県本部は「とうふ連事務局」として多忙を極めることになりそうだが、歴史的事業に参加できることを光栄に感じ、とうふ連担当の協会事務局員は張り切っている。(協会・畦布こと私) 2000・7・15

<しなやかに、そして、味わい深い人生を>
 「とうふ連」のことを正確に語るのは容易ではない。結論からいえば、その準備段階も正式結成以降も、「不定期総会」と称してただ呑んでいるだけの「緩やかな連絡組織」である。連絡組織であるから、いろんな毛色の人が集まっていることは自慢して良いが、日常的に連絡を取り合っているというものでもない。
 きっかけをいえば、話は94年にさかのぼる。その晩、兵庫県のきかんしセミナーに参加していた労働組合や民主団体のオヤジ連中は、「男の悲哀」をこもごも語り合いながら杯を傾けていた。夜も更ける頃に父親同士の交流組織の必要性が共通認識になり、「とうふ連」即ち「兵庫の闘う父親連絡会」の名称まで決まっていた。しかしそのメンバーの中に、家庭内の闘いに勝利した者は居なかった。
 正式結成は99年のことだが、この時の規約と結成宣言がふるっている。「平和と民主主義擁護のため闘う」ことはもちろん、「父親の遊びとユーモア精神を重んじ」「トウフなどの伝統的健康食を摂取しながら適正飲酒につとめる」と高らかに宣言している。ただ、どれくらいが「適正量」なのかを正確に把握いるのかどうかは極めて疑わしい。
 特筆すべきは、この連が伝統ある「母親大会連絡会」との関係のあり方について、明確に打ち出していることにある。準備会の段階での中心的話題が、「家庭内における自分の(低い)地位」であったことで、すでに勝負はついていたといっていい。精一杯強がって「緊張感ある適正で良好な関係をめざす」といってはみたものの、「対立は絶対避ける」と、誕生の瞬間から敗北宣言をやってしまった。現在、準備をすすめている「父親大会」も「母親大会」の分科会としてスタートする。「命のもとを生み出す」と威張ったところで「命を生み出す」人たちには勝てないのである。
 しかし、兵庫の地において「すべての父親の要求実現と団結の『母』体」が生れた意義は大きい。こんな生きにくい時代なればこそ「お互いの人生を軽やかにのりきるために、共同の努力」を怠らず、「キヌコシのようにしなやかに、モメンのように味わい深く」闘いたいと思っている。(美山育造) 2001・4・15

<会員85人突破!100人目前、「父親大会」開催準備を開始します>
 メールでの加入申込者もあり、とうふ連会員が86人(2002年6月末現在)になりました。
「会員が100人になったら『父親大会』を開く」と豪語していた、世話人・事務局の面々は、思案に明け暮れております。
父親大会をどのように開催するか、具体的に考えないといけないのです。アイデアをお寄せください。世の父親の面目を保たなければなりません。(協会・畦布こと私)
2002・7・15

:とうふ連関連資料:
(1)経過
すべての兵庫の父親の要求実現と団結の「母」体
兵庫の闘う父親連絡会
“とうふ連”
<「とうふ連」誕生のはなし>
 それは1994年6月25日の夜のことでございました。武田尾温泉・紅葉館に集まっておった「きかんしセミナー」参加のおっさん連中は、自分がいかに家庭内でしいたげられておるのかをこもごもと語り合いながら、杯を傾けておったのでございます。
 その雑談の中でいつしか父親同士の交流組織の必要性が語られ、その夜のうちに「とうふ連」の名前まで決まってしまったのでございます。(その時の酒の肴がトウフであったかどうかはさだかではない)
 ところが、その後毎年の「きかんしセミナー」では「いったいいつになったら結成するんや?」の話にはなるものの、なかなか具体化には至らず5年の歳月が流れてしまいました。当時おじんだった者どもは、ますますおじん度を深め、このままでは正式結成を前に人生を終えるのではないかという危機感も生まれてまいったのでございます。
 そんな折も折、1999年6月、伝統ある兵庫県母親大会に「お父さんと一緒に考える家庭での男女平等・民主主義の問題」という、これ以上「とうふ連」の結成の趣旨に合致する企画はないという分科会が設けられることになったのでございます。
 こうなると尻の重かったメンバーも動かざるをえないのでございまして、当初からの経過をご存じの方、はじめて「とうふ連」の名前を聞いたという方にも呼びかけたところ、ぱーっと7人のおっさんたちが、神戸市須磨区板宿の「居酒屋・あかおに」に大挙押しかけ、構想から丸5年と2日目の6月27日の夜、歴史的な結成総会を開いたのでございます。

<「とうふ連」成長の記録>
 その年12月の「きかんしセミナー」でも不定期総会が開かれ、翌年の母親大会への参加等が話し合われたのでございます。そして2000年6月11日に宝塚市で開かれた兵庫県母親大会に参加した会員が、な、な、なんと「来年は父親大会を開く!」と(まわりが女性ばかりだったので思わず口に出たのか)言ってしまったのでございます。
 それでもう後に引けなくなったおじんたち(少し若いのもおりますが)は宝塚駅近くの寿司屋さんに押しかけ(着いたときは陽も高く、まだ開店していなかった)不定期総会を開き、会員拡大やシンボルマーク(トウちゃん?)、世話人の確認等の意思統一をおこなったのでございます。なお、意思統一はその後、箸をマイクに持ち替え、夜の更けるまでつづいたのでございます。このように、不定期総会は非常に疲れるものでございます。
 さらに、6月16日にも三宮「ZAKOBA」で、疲れをものともせず不定期総会を開き、父親大会開催に向けた会員拡大等が話し合われ、その結果、結成総会以降10名位で変化のなかった会員が急速に増えつづけ、2000年11月現在で50名を擁するに至ったのでございます。その後も、会員は増えつつづけ、2001年12月に不定期総会を開きましたら、その場で大量13人も加入し、会員数が84人になったのでございます。会員数が「100人になったら『父親大会』を開く」と広公言しておりましたので、まだまだ先のことと、高をくくっていた面々、「どうしたものか?」と内心困っている昨今でございます。

<「とうふ連」将来の夢>
 長々と述べてまいりましたが、以上のような経過をたどって今日に至っております。
 参考までに、「とうふ連」の規約(一応あります)・結成宣言を記しておきます。この趣旨に賛同いただける父親(将来父親になる可能性のある人を含む)の皆さん、そして女性のみなさんに「とうふ連」への加入を心から訴えます。
 兵庫から、全国へ、そして世界へ、羽ばたく日を夢見て。
(2)結成宣言
いのちのもとをうみだす父親は
いのちのもとを育てるために
わたしたちの居場所を守ることを望みます

<とうふ連結成宣言>
 われわれ兵庫の父親は、今日ここにすべての兵庫の父親の要求実現と団結の「母体」として、「とうふ連(兵庫の闘う父親連絡会)」を結成した。
 構想から正式結成まで5年の歳月を要したことは、われわれに自主性のかけらもなかったことがその原因といえなくもないが、阪神・淡路大震災の辛酸を経てもなお、結成への熱き思いが消え去ることがなかったことは、この会の歴史的な存在価値をみごとに証明しているものである。
 われわれは、本日の結成の瞬間から、確認された規約に基づき、憲法擁護、平和と民主主義の前進のために闘うことはもとより、父親独自の葛藤、悲哀などを人類愛的な立場からなめ合い、正しい父親になることをめざす。同時に、この厳しい時代を軽やかにのりきるために、ユーモア精神を重んじ、お互いの人生が充実したものとなるよう共同して努力するものである。さらに極めて困難な課題ではあるが、歴史と伝統ある「母親連絡会」と緊張感ある対等・平等の関係を築くために、すべての兵庫の父親を視野に組織強化に邁進するものである。
 そして、21世紀の遅くない時期に樹立されるであろう民主的政権を現世において見届けるために、何よりも健康に留意し、トウフをはじめとする伝統的健康食を摂取しながら適正飲酒につとめるものである。
 われわれは、いのちのもとをうみだす父親として、トウフのようにしなやかに、そして味わい深く闘うものである。
以上、宣言する。
1999年6月27日
兵庫の闘う父親連絡会結成総会

(3)規約
「とうふ連規約」
(会の名称および事務局)
1. この連絡会(以下「連」)の名称を、兵庫の闘う父親連絡会(略称:とうふ連)として、将来の闘う父親会館建設を展望しながら、当面の事務局を神戸市中央区東雲通3丁目3番20号の日本機関紙協会兵庫県本部におきます。
(会員資格)
2. 連の規約を認める兵庫の父親(将来的に父親になる可能性のある者を含みます)は誰でも会員となることができます。また趣旨に賛同する「女性は」賛女会員とします。
(目的および事業)
3. 連はつぎの目的をかかげ、その実現のために必要な事業を展開します。
・憲法擁護、平和と民主主義の前進のためにたたかう
・母親大会連絡会との「緊張感のある」適正で良好な関係をめざし、対立はさける
・子育て交流をはじめ、世の父親共通の悩み、葛藤、悲哀などを交歓しあい、正しい父親をめざす
・父親の遊びとユーモア精神を重んじ、お互いの人生の充実のために努力する
(性格および運営)
4. 連の性格は、ゆるやかな連絡調整機関とし、ゆるゆると息の長い運営をめざします。したがって、会費等は徴収せず、必要経費はワリカン、その時々に金のある者のカンパなどで適当に処理します。
(役 員)
5. 執行機関はおかず、日常的な連の事務は、世話人若干名をおいて処理します。また、代表世話人と名誉会長を適当におくことができるものとします。
(不定期総会)
6. 連は、年1回をめどに不定期総会を開催します。
(規約の改廃)
7. この規約の改廃は、不定期総会出席者の全員一致によるものとします。


<参考・引用文献>
:日本国憲法:
:「大辞林」松村明編・三省堂刊:
:「腐敗したメディア」北村肇著・現代人文社刊:
:「ジャーナリズムの思想」原寿雄著・岩波書店刊:
:「ディベート術入門」北野宏明著・ごま書房刊:
:「文化人類学入門」祖父江孝男著・中央公論社刊:
:「ネットワーク思考のすすめ」逢沢明著・PHP研究所刊:
:「コミュニケーション技術」篠田義明著・中央公論社刊:
:「取材学」加藤秀俊著・中央公論社刊:
:「現代の新聞」桂敬一著・岩波書店刊:
:「安心報道」林英夫著・集英社刊:
:「メディア・リテラシー」菅谷明子著・岩波書店刊:
:「新聞大観(第一集)」全日本新聞連盟編集・発行:
:「事実が私を鍛える」斎藤茂男著・太郎次郎社刊:
:「新編・事実とは何か」(T)(U)本多勝一著・未来社刊:
:「地域・住民新聞 考え方とつくり方」金子徳好著・日本機関紙協会刊:
:「これが宣伝だ」金子徳好著・日本機関紙協会刊:
:「機関紙のあゆみ」日本機関紙協会編集・発行:
:「日本の機関紙」吉村英著・日本機関紙協会刊:
:「機関紙80年ものがたり」日本機関紙出版センター発行:
:「機関紙と宣伝」日本機関紙協会編集・発行:
:習作「わが古代史と国体史観を求めて」八木春雄著:
 <私の経験的機関紙論>
・ 今井精一「夢や希望を実現する力を作る機関紙活動をめざして」(2000.2)
・ 磯田栄「人こそ機関紙活動の原点手抜きをするな」(2000.7)
・ 橘英實「人間は自立した存在『励起』を促す機関紙を」(2000.8)
・ 八田帰一「機関紙はジャーナリズムの一翼を担っている―私の機関紙ぼやき論」 (2000.10)
・ 矢野政昭「発言する機関紙は覚悟がいる―『これでいいのか』の問いかけを」 (2000.12)
:「朝日」「毎日」「読売」「サンケイ」「日経」「神戸」他マスコミ各紙:
:労働組合・各種団体・政党発行の機関紙(誌):


:編集後記:
 機関紙の役割として「教育・宣伝・組織」という3つがあるといわれています。
これは、1953(昭和28)年、ウイーンで開かれた、第3回世界労働組合大会で「宣伝の決議」としてなされ、それ以降、機関紙の役割として広く認知され、定着しているものです。
 機関紙にかかわっている人たちはすべて、一人残らず、間違いなく、この3つを機関紙の役割といいます。
 私たち「きかんし協会(日本機関紙協会兵庫県本部)」は、10年前、阪神・淡路大震災を経験し、「機関紙の既成概念を改めよう」と主張するようになりました。それは、「機関紙とは、読者・会員の“命の叫び”の結晶だ」と考えるようになったからです。
 阪神・淡路大震災発生直後の、大混乱の被災地で、「はりがみ」や「口コミ」が大活躍しました。
 「はりがみ」や「口コミ」で生活情報を交換・共有し、私たち被災者は生きのびることができました。
 これこそ、機関紙の原点だと思います。
しかし、この「はりがみ」や「口コミ」という機関紙の原点を説明する時、教育・宣伝・組織という役割だけでは、説明できません。
 辞書で機関紙という項目を検索すると、どの辞書も、「機関紙とは、組織(団体)が、活動内容や方針を知らせるために発行するもの」となっています。しかし、「はりがみ」や「口コミ」のほとんどは、組織(団体)ではなく個人が発したものでした。これでも、説明できません。
 私たちは現在、阪神・淡路大震災を経験した唯一の「機関紙協会」からの発信として、「これまでに理解され、定着している、機関紙の概念と定義は改める必要がある」と主張しているところです。
 つまり、「機関紙の発行主体は、最小のものは個人であり、これが、寄せ集められて、組織(団体)発行の機関紙に発展する」と主張しているのです。
 一つの組織(団体)の中には、複数の、無数の機関紙が存在し、縦横無尽に飛び交っているのです。その数が多ければ多いほど、その組織は、自由で民主的な組織であるといえます。
 被災地で無数に発行された「はりがみ」や「口コミ」は、生きるために必要な情報・命の叫びでした。これが機関紙の原点ですから、「機関紙とは、人間が生きるために、必要なものなのです。だから、読者・会員の命の叫び・声が、載っていないといけない」のです。先ほどの、教育・宣伝・組織という3つの役割をいう前に、このことを、私たちは付け加えるようにしています。
*********************
 憲法「改正」問題が、風雲急を告げています。憲法「改正」を積極的に提唱しているメディアもあります。
戦争する国へ逆戻りするのか、どうか?私たちは現在、歴史的岐路に立たされています。
 情報が氾濫している時代です。必要な情報、不必要な情報もあります。誤った情報もあります。
 氾濫する情報の中から、「必要な情報はどれか、不必要な情報はどれか。どの情報が正しくて、どの情報が間違いなのか」「情報を読み取り、視取り、聴き取る力」を、私たち読者・視聴者は身につけなければなりません。
 その一助とするために、「神戸メディア・リテラシー研究会」を発足させました。地道に広げていきたいと思います。
<参考>
「神戸メディア・リテラシー研究会」
申し合わせ事項
(2004.10.25・神戸市産業振興センター901号室における「発足の集い」で、規約に替わるものとして確認)

1.本会は、「神戸メディア・リテラシー研究会」と称する
1.本会は、メディアや情報に関心のあるすべての人に、門戸を開放し、自由な意見交換・交流の場とする
1.本会は、会員同士の意見交換・交流のために例会を適宜開くこととする
1.本会は、全員代表制をとる。よって、すべての会員が会を代表し、会の運営には全員が責任を負う。イベント開催の時は、提案者が中心となって企画・運営し、会員全員で任務分担して協力、イベントを成功させる
1.本会は、会費を徴収しない。イベント開催の時は、その都度、会員全員の創意工夫で必要資金を捻出する
1.本会は、次のところに連絡先を置く
  きかんし協会(日本機関紙協会兵庫県本部)
   神戸市中央区東雲通3-3-20(〒651-0079)
   TEL 078-232-3715 FAX 078-232-3717
   E-mail kyokai@kikansihyogo.com
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 きかんし協会(日本機関紙協会兵庫県本部)創立50周年、阪神・淡路大震災発生10年の節目を記念して、畦布哲志氏が記したものを編集し、この冊子を作成しました。きかんし協会の責任で全国発信します。
 内容に対する評価は、多々あると思いますが、「機関紙とは、自由で柔軟、非常に幅広いもので、多種多様な形態がある」ということをお汲み取りいただき、私ども「きかんし協会(日本機関紙協会兵庫県本部)」への、ますますのご支援・ご協力をお願いします。
 最後に、皆様方のご多幸をお祈りいたします。
5年10月15日
きかんし協会(日本機関紙協会兵庫県本部)事務局・編集委員
桑田泰男 橋本公子 北川京子 竹内明弘 力重智之 前田益世


<プロフィール>
畦布哲志(あぜふ・てつし)
きかんしジャーナリスト。1948(昭和23)年3月鹿児島県沖永良部島生れ。1967(昭和42)年大阪経済大学第二経済学部入学、学生運動・労働組合運動を通じて、機関紙と出会う。1979(昭和54)年日本機関紙協会兵庫県本部事務局員、1991(平成3)年〜2001(平成13)年同事務局長、現在同副理事長・局長。日本コミュニケーション学会会員。日本ジャーナリスト会議(JCJ)会員。
著書「赤えんぴつ」「神戸からのレポ−ト」(日本機関紙協会刊)。
神戸市垂水区在住、家族(妻、一男・一女)。

お問い合わせ→mail:kyokai@kikansihyogo.com