私の戦時中の体験と「あたらしい憲法のはなし」の出版が打ち切られた背景
私の戦時中の体験と「あたらしい憲法のはなし」の出版が打ち切られた背景
               田中敏夫 1931(昭和6)年 兵庫県生まれ
 2013年6月7日記

一、社会全体が戦争一色にぬりつぶされていた私の少年時代

✲ 夫の出征を見送る際、そっと涙を拭った妻を非難した近隣の人たち
 私が小学校の3年生ぐらいのときだったでしょうか。私の隣の方が出征されました。その見送りの際のことです。近所の人たちが多く集まって見送りましたが、最後に玄関を出て行かれる際、その方の奥さんがそっと涙を拭われたそうです。私はまだ子どもでその様子は見ていませんが、この後、近所の人たちが「めでたい日に涙を見せるとは」と、盛んに口にされるようになり、子どもだった私ですがこの異様な雰囲気が心に焼きつき80歳を超えた今もふと事あるごとに思い出されてきます。

✲ 南京陥落やシンガポール陥落で町を挙げて行われた提灯行列
 もう今では詳しい様子を思いうかべることはできませんが、南京陥落などで提灯行列が行われ、親に連れられて行列に参加したことを覚えています。まさに街じゅうが「勝った」「勝った」で沸きかえっていました。しかし、当時、国民の誰もが南京やシンガポールで虐殺行為が行われたことなど知る由もありませんでした。これは私が戦後、三菱電機で働くようになり、職場の班長が自らの体験としてシンガポールで虐殺行為を行った部隊にいて、自らも銃を撃ったことを含めその様子をまざまざと語られ、ただ驚き、私の戦後の生き方に強い影響を与えました。
 このようにして国民の多くが戦勝気分を味わっている一方で、出征兵士を送るために近隣の人たちが揃って芦屋駅まで見送りに行ったことも何度かあります。また学校からは、先生に引率されて摂津本山駅まで見送りに行ったことも少なくありません。

✲ 当時、国民の大部分の人たちが日本が行っている戦争がどのようなものかを考えようとしていなかった
 私の少年時代、日本が戦っている戦争は正義の戦争であり「聖戦」だと思っていました。そのため、国民の大多数が軍部を支持していました。こうした世論の形成に報道機関はもとより教育が完全に国家の統制下にあり、軍国主義教育が貫かれていたことを軽く見ることができません。
1936年12月、私がまだ小学校に入学する以前のことですが、「新興教育運動」に関わりがあるという理由で御蔵小学校に勤務されていた倉岡愛穂先生が御影署に逮捕され(このときに逮捕された方は4名)、翌年の4月、御影署で変死されています。そして御影署は、遺体を引き取りに来た家族に警察は「医者に見せるな。葬式を出すな。親戚に知らせるな」と命じたのです。まさに虐殺されたとしか言いようがありません。しかし、こうした事実は戦後になっても報道機関が報じることはありませんでした。(詳しくは「兵庫の教育運動」創刊号、1982年春季号。「教育労働運動の歴史」労旬社1970年刊をご覧ください)
 今、「新しい歴史教科書」や「新しい公民教科書」を採択する自治体が首長の意を受けて増えていますが、私はこうした動きに強い危機感をおぼえてなりません。「新しい歴史教科書」では、ほんの一部の引用ですが「アジアに広がる独立への希望」という項をたて「日本の緒戦の勝利は、東南アジアやインドの人々に、独立への夢と希望をあたえた」と記述しています。これは安倍首相や橋下市長の認識とも一致しているものでしょう。しかし、これらの問題を正面から取り上げる一般報道機関はありませんし、市民の反応も弱いのが現実です。私たちはしっかりと歴史の事実に目を向け、そこから教訓を引き出していかねばなりません。

✲ 巷で氾濫していた朝鮮や中国の人々を軽蔑することば
 私が小学校の3~4年生だった頃、私の家の近くに粗末な板で囲っただけの小屋が街の空き地(現、JR甲南山手駅の北西辺り)に建てられており、朝鮮から日本に来ておられた方が住んでおられました。子どもだった私は、この朝鮮の人はどこでどんな仕事をしておられ、どのような生活を送っておられたのかは全く知らないままです。
 このような朝鮮の人を街の人たちは「朝やん」とか「鮮人」と呼び、また、中国の人たちを「チャンコロ」と呼んでいました。これに対し、私は母から「朝やん何か言ってはいけません。朝鮮さんと言いなさい」と常々言われていました。母のことばでは不十分ですが、他国の人を侮辱してはいけないという母の思いは今も私の心に深く残っています。

✲ 戦時中に私たちが歌っていた歌
勝ちぬく僕等小国民
一、勝ちぬく僕等小国民 / 天皇陛下の御為に / 死ねと教えた父母の / 赤い血潮を受けついで / 心に決死の白襷 / かけて勇んで突撃だ
二、必勝祈願の朝詣 / 八幡さまの神前で / 木刀振って真剣に / 敵を百千切り斃す / ちからをつけて見せますと / 今朝も祈りをこめて来た
三、僕等の身体に込めてある / 弾は肉弾大和魂 / 不沈を誇る敵艦も / 一発必中体当たり / 見事轟沈させて見る / 飛行機位は何のその
四、今日増産の帰り道 / みんなで摘んだ花束を / 英霊室に供えたら / 次は君等だわかったか / しっかりやれよたのんだと / 胸にひびいた神の声
五、後に続くよ僕達が / 君は海軍予科練に / 僕は陸軍若鷲に / やがて大空飛び越えて / 敵の本土の空高く / 日の丸の旗立てるのだ

サイパン殉国の歌
一、哭(な)け 怒れ 奮えよ 撃てよ / 夕映えの 茜の雲や / 血に咽(むせ)ぶ サイパン島 /皇国(すめくに)を 死して護ると / 将兵(つわもの)ら 玉と砕けぬ
二、哭け 怒れ 讃えよ ほめよ / 皇軍(みいくさ) 力協せて / 同胞(はらから)は よくぞ起ちたり /
勇ましや 老いも若きも / 義に燃えて 国に殉じぬ
三、哭け 怒れ 讃えよ ほめよ / 武器とりて 起て得る者は / 武器とりて みな戦えり / 後(しりえ)には 大和撫子 / くれないに 咲きて匂いぬ
四、哭け 怒れ 讃えよ ほめよ / 代々(よよ)享(う)けし 忠武の血もて / 旗じるし高く 揚げたり / 仰ぎみて 同じこころに / 戦いに われら続かむ
五、哭け 怒れ 奮えよ 撃てよ / 千萬(ちよろず)の 敵というとも / 皇(すめ)御民(みたみ) 何か恐れむ / 天つ日の 照る日の本ぞ / 日をおいて 国を護らむ

日本陸軍
一、出征
天に代わりて不義を討つ / 忠勇無双の我が兵は / 歓呼の声に送られて / 今ぞ出で立つ父母の国 / 勝たずば生きて還(かえ)らじと / 誓う心の勇ましさ
二、斥候兵
或いは草に伏し隠れ / 或いは水に飛び入りて / 万死恐れず敵情を / 視察し帰る斥候兵 / 肩に懸(かか)れる一軍の / 安危はいかに重からん
三、工兵
道なき道に道をつけ / 敵の鉄道うち毀(こぼ)ち / 雨と散りくる弾丸を / 身に浴びながら橋かけて / 我が軍渡す工兵の / 功労何にか譬(たと)うべき
四、砲兵
鍬(くわ)取る工兵助けつつ / 銃(つつ)取る歩兵助けつつ / 敵を沈黙せしめたる / 我が軍隊の砲弾は / 放つに当たらぬ方もなく / その声天地に轟(とどろ)けり
五、歩兵
一斉射撃の銃(つつ)先に / 敵の気力を怯(ひる)ませて / 鉄条網もものかわと / 躍り越えたる塁上に / 立てし誉れの日章旗 / みな我が歩兵の働きぞ
六、騎兵
撃たれて逃げゆく八方の / 敵を追い伏せ追い散らし / 全軍残らずうち破る / 騎兵の任の重ければ / 我が乗る馬を子のごとく / 労(いた)わる人もあるぞかし
七、輜重兵
砲工兵騎の兵強く / 連戦連捷(れんしょう)せしことは / 百難冒(おか)して輸送する / 兵糧(ひょうろう)輜重のたまものぞ / 忘るな一日遅れなば / 一日たゆとう兵力を
八、衛生兵
戦地に名誉の負傷して / 収容せらるる将卒の / 命と頼むは衛生隊 / ひとり味方の兵のみか / 敵をも隔てぬ同仁の / 情けよ思えば君の恩
九、凱旋
内には至仁の君いまし / 外には忠武の兵ありて / 我が手に握りし戦捷(せんしょう)の / 誉れは正義のかちどきぞ / 謝せよ国民大呼(たいこ)して / 我が陸軍の勲功(いさおし)を
十、勝利(平和)
戦雲東におさまりて / 昇る朝日ともろともに / 輝く仁義の名も高く / 知らるる亜細亜の日の出国 / 光めでたく仰がるる / 時こそ来ぬれいざ励め

※ 「天に代わりて」討つ不義とは一体何なのか。今、学校で教えられている「歴史」は「自虐史観」だと声を荒立ている人々はこの歌詞をどのように読み取っているのでしょう。

✲ 「みどりの塔」は皇紀2600年を祝う八紘一宇の塔だった
「みどりの塔」は戦時中、戦意を高揚するために建造された「八紘一宇の塔」を改造したもので、この塔の除幕式を神戸新聞が大きく報じおり復刻しておきます。

神戸新聞(昭和16年11月11日 15782号)の聖紀慶祝記念塔(八紘一宇の塔)除幕式の報道
神戸新聞日付
神戸新聞記事

 縮小コピーでは文字が読めないため復刻しておきます
皇紀2600年曠古の盛典を慶祝する300萬縣民の赤誠を永久に傳へるべく須磨浦一の谷「戦の濱」の勝地に建設を急いでゐた本社提唱「聖紀慶祝記念塔」の晴れの竣工除幕式は10日、2600年祭典満一周年の佳日を卜して盛大に擧行された、昨秋11月20日起工以来355日いまぞ仰ぎ見る塔身52尺有餘の柱頂には、肇国を象徴する八紘光被の金鵄が羽博き「天壌無窮」「八紘一宇」「億兆一心」の浮彫り12字が燦として秋陽に映ゆ、港都神戸市民および縣民300萬が久遠に誇る〝聖紀の塔〟はいま建ったのである  ―― 以下略

神戸新聞写真

✲ 「みどりの塔」の囲いの壁面に刻まれている「八紘一宇の塔」の銘文
○印は判読できない部分

神武天皇橿原ニ建国元肇ノ大典ヲ行ヒ給ヒ吾等カ遠祖亦ソノ禮ニ侍して威儀ニ備ハル神猷皇皇タリ 勅シテ宣ハク八紘ヲ一宇トシ八埏ヲ一民トスト而テ今茲ニ二千六百年ヲ經タリ 皇位ハ一系ニシテ百二十四代金枝玉葉隆隆トシテ常盤堅磐ニソノ彌榮ヲ樹テ天壌ト共ニ無窮ナリ倶侍ノ輩亦澎湃トシテ大八州ニ擴カリソノ○○門一億ヲ數フルニ至ル曩ニ今上陛下宮城外苑ニ大○ノ赤子ヲ召レ 皇祖肇国ニ○○○○稔ノ祝典ヲ挙ケサセラル吾等コノ盛○○○ヒ懌ヒニ禁へ○記念榮造ヲナシ以テ百万神戸市民慶祝ノ意ヲ○○ニシ之ヲ千○○○○○ト欲ス乃千同士ト○○○ヲ相シ材○○○○○○○○○ニ○○○成○○地源○千○………○ヲ傳ヘ向沙○○ニ達リ○○島○○○シ○○○内ノ絶勝ナリ而テ人ヲシテ張膽セシ○○○○ヲ今ヤ興亜ノ聖戦○○○○ ○………序再○ノ○○○○○国ノ大………○ノ○………○ニ 天業ノ雄大○………○徹シ○………○然トシ○………○寺○………○亦感激勇○○○○ヲ克服○○ト○シ○………○スン○○セサルモノ○リ即チ発願○○ノ由来ヲ書シテ○ヲ不朽ニ傳ヘ以テ興隆民族ノ光輝タラシメンコトヲ願フ云爾
 紀元二千六百一年 昭和十六年十一月   聖紀記念建造物期成会・提唱 神戸新聞社

☆ 塔右翼の地球儀に刻み込まれている線は当時の日本の支配地域
地球儀に刻まれた日本の支配地域

☆ 今も塔右前の方位盤に刻み込まれている皇居・伊勢神宮・明治神宮・宮崎神宮の方位を示す矢印(礼拝のため)
方位盤に刻まれた矢印

☆ 塔の囲いの壁面に描かれている神武天皇東征の図と富士と桜の図
神武天皇東征の図と富士と桜の図

✲ 戦争に勝つか負けるかで口喧嘩
 私が工業学校に入学した年(現、中学1年)のことです。どんなきっかけだったか思い出すことはできませんが戦争に勝つか負けるかで激しい口喧嘩を始めました。私は「勝つ」と言い張り、相手のM君が負けると言い張り、喧嘩になったのです。なにぶんどちらも弱い者同士であったため殴り合いはしませんでしたが言い争ったのです。ところで次の日の朝、M君は私が教室に行く前に教室の入り口の前で待っており、私の顔を見るなり「田中君、昨日は悪かった。許してくれ」と誤ってきたのです。私は弱い子どもだったためただの一度も友だちに謝られた経験がありません。何のことか分からぬままその場は過ぎてしまいましたが、あまりのことにその場の雰囲気を今でも鮮やかに覚えています。このことは私が成人した後に気付いたのですが、当時「日本が戦争に負ける」等と口にすることは許されない時代でした。M君のお父さんは弁護士でそれなりの情報を得ておられ、家族の間で話題になっていたのかもしれません。M君は世間の動きを知らずに私と喧嘩をしたことを家族の誰かに話したに違いありません。家族の中で戦慄が走ったのでしょう。なにぶんM君が「戦争に負ける」と言い張ったことが学校に知れると大変なことになります。「壁に耳あり、障子に目あり」の時代です。そこで翌日の朝、M君は私を待ち受けて必死に誤ったに違いありません。

✲ 凄まじい拷問を受けていた強制連行されてきた朝鮮の人々
 私は少年時代に両親を亡くしましたので学徒動員で働いていた神戸三菱造船所の寮に入っていました。この寮には朝鮮から強制連行されてきた人たちがたくさんおられました。
 この朝鮮の人々の殆どの人が日本語が話せず、強制連行されてきた人の中で日本語が話せる人が通訳をしていました。この通訳の人を通じて強制連行されたときの様子を何人かの人から聞いたのですが「畑で仕事をしていると日本兵(憲兵か)が来て、その場で連行されてしまった。そのため家族にも出合っていない」「寝ていると日本兵が入って来て、無理やり連行されてしまった」等、私は文字通りの軍国少年でしたが、これらの話を聞いて心が動揺し、すごく心が痛みました。
 寮では、日本人の入寮者と、朝鮮の人と、学徒動員の私たちとは全く棟が違っていましたので、寮での暮らしぶりは分かりませんが食堂が同じ棟でした。
 寮は木造の校舎に似た建物でしたが食堂の棟だけは幅が広く、まるで学校の講堂を細長くしたような広い部屋で、これを二つに仕切って朝鮮の人と日本人が分けられていたため食事の内容は分かりません。しかし、食堂の出口は棟の中央部に一つしかなく双方がこの出口を使っていました。この出口のところに残飯を入れる大きな樽が二つばかり置かれていたのですが、朝鮮の人たちがこの残飯をすくって食べておられる様子を毎日のように見て、明らかに日本人とは食事の内容が違い、飢えておられに違いないという思いに駆られました。なにぶん私たちは、時々汁ものとして出されるミル(海草の一種)のおつゆが、当時、回虫(腸の寄生虫)予防に飲まされていたマクリに似た味で、飢えていたはずの私たちもこのおつゆだけは全部捨てていたのです。その残飯を朝鮮の人たちがすくって飲んでおられたのです。見るのが辛い思いに駆られました。
 夜になると毎日のように棟の近くから哀調に満ちた「アリラン」の歌が聞こえてきました。両親を亡くしている私には胸に響きました。
 寮は入り口付近に寮監などの部屋がある事務所があり、その横に板張りの小屋がありました。ある日、この小屋の横を通りかかると小屋の中からうめき声が聞こえました。何だろうと思って小屋の節穴(粗末な板張りのため、ところどころ板の節穴が開いていた)から中を覗いてみると、一人の朝鮮の人が柱に縄で身体をくくり付けられ、寮監がトラックの荷物を縛るような太い縄で、この朝鮮の人をしばき続けていたのです。何が原因かは知りませんが、戦慄が走り、気が動転してしまいました。
 またある別の日のことです。私たちの部屋に寮監が来て「暗幕を閉めろ」と言ってきました。私たちは神戸、明石の空襲を直接体験しており、夜は必ず暗幕を閉め、決して室外に光を漏らしませんでした。だが、しかし、昼間のことです。なぜ暗幕を閉めるのか理由が分かりません。「閉めろ」と言われれば返って外が見たくなります。そこで暗幕の端からそっと外を覗いてみて驚きました。一人の朝鮮の人が防火用水槽(幅1.5m、長さ3m、深さ1m程の棟と棟の間に設置されていた防火用水槽)に投げ込まれ、寮監が数名この水槽の周りに立っていて、投げ込まれている朝鮮の人の頭を蹴るのです。その人は頭を蹴られて水に沈みますが息をするために頭を上げてきます。するとすかさず、また頭を蹴って沈めます。何回繰り返されたことでしょう。部屋にいた数名の寮生の誰もが歯ぎしりして怒り狂いました。
 この日からしばらくの後、寮生の一人がどこから聞いてきたのか「通訳が遁こした」(この当時私たちは作業現場から逃げ出すことを「遁こする」と言っていた)と部屋に駆けこんできました。その時部屋に何人いたかは記憶がありませんが、みんなが躍り上がって喜びました。誰も朝鮮の人が凄まじい迫害を受けていることを目にしていたので「遁こ」したと聞くと躍り上がる程嬉しかったのです。
 しかし、成人した後、私は心配でならなくなったのですが、この通訳の人は無事に逃げのびることができたでしょうか。この当時のことです。もしどこかで捕まっておれば命を落としているやも知れません。もう1ヶ月もすれば日本は敗戦の日を迎えていたのです。
 これらの人生体験は、戦後の私の生き方に大きな影響を与えました。

二、憲法をめぐる情勢が激変した1950年前後

✲ アジア情勢の激変の中で対日政策を大転換したアメリカ
―― 憲法制定直後から始まった「改正」を求める圧力(その背景に冷戦の激化)――
―― 政府は細かな手立てを講じて「改憲」のための世論づくりを行ってきた ――

1946.11. 3. 日本国憲法公布
1947. 2. 1. GHQ 2・1ゼネスト中止命令
1947. 8. 2. 文部省(当時)、新制中学校1年生用社会科教科書として「あたらしい憲法のはなし」を発行
1947. 9.20. 昭和天皇の沖縄メッセージ
※ 昭和天皇の沖縄メッセージの概要 (米国国立公文書館から収録したもの)
(1)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
(2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
(3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。
 メモによると、天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られるなどとしています。

1979年にこの文書が発見されると、象徴天皇制の下での昭和天皇と政治の関わりを示す文書として注目を集めました。天皇メッセージをめぐっては、日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする議論や、長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だったという議論などがあり、その意図や政治的・外交的影響についてはなお論争があります。      沖縄公文書館、インターネートより
1948. 4. 3.  マッカーサー司令官 国防長官に覚書提出
※ その覚書の一部
「琉球(沖縄)の最終的処分がどのようなものであろうと、合衆国は軍事的な権利を保持するものだということを自明のこととするか、ただちにその旨の決定を行うべきだ。これらの島々を軍事目的で開発することは、緊急の優先事項として推進されるべきだ」 
1948. 5.18. 米国務長官、日本とドイツの限定的再軍備の研究をするよう陸軍長官に覚書
※ この覚書(1948.5.18)の一部
5 日本を引きつづき米国の側に置き、戦略的な位置にある日本を米国が支配することは、極東における共産主義の膨張に対抗し、必要とあらば、われわれの現在の戦争計画を達成するにも欠かすことはできない。
9 日本の市民警察の増強はまず現在の中央集権的国家・地方警察を強化するために行なわれるべきである。国家・地方警察は、その本来の任務に加えて、占領軍の地域的保安軍の任務を支援し、将来の日本軍隊の組織化への橋渡しとなる。
11 計画はいまや日本の限定的軍備の最終的設立のために連合国による占領の終了もしくは実質的日本の主権回復にむけて準備されるべきである。日本の限定的軍備は米国によって主として組織・訓練され、厳重にコントロールされるべきであり、国内の安全を維持し、外部からの侵略にたいする地域的防衛行動に従事し、国威の再興に貢献するという目的のために存在すべきである。
12 いまや将来の防衛のための日本軍を容認する立場で、新憲法の改正を達成するための調査が行われるべきである。

※ この覚書に応えて陸軍長官が国防長官に提出した覚書の一部
七、軍事的観点からだけ見れば、日本の軍隊を創設することが望ましい。なぜなら、そ のような軍隊は、日本防衛の負担を分担することになり、わが国の限りある人的資源の利用における節約という効果をもつからである。
八、しかし、文民警察の増強や沿岸警察の創設は別として、日本の軍隊の創設は、たとえ限定的なものであっでも、現時点においては、実際的でないし、賢明でもない。
b そのような行動は日本人が彼らの新しい憲法を改定すること、われわれがポツダム宣言を廃棄することを、必要とする。
九、日本の文民警察の増員は、中央の統制下にある既存の国家地方警察を拡大するために、早急におこなわれるべきである。それは、……後日問題になる可能性がある日本の軍隊の組織化のための媒体という役割をになうだろう。
十一、連合国による占領の終結あるいは大幅な削減にあたって、日本の限定的な再軍備を最終的に確立するための計画を、現時点で準備しなければならない。この軍隊は、米国によって組織され、初期の訓練を受け、厳格に監督されなければならないし、国内の治安維持、外部からの侵略に対する地域的な防衛行動への従事、国家的威信の回復への貢献などを、目的とするものである。
十二、防衛のため日本の軍備を最終的に認めるという見地から日本の新憲法の改定を達成するという問題が探究されるべきである。
1948. 7.12. 警職法制定
国民の間では「警職法」は、「おい、こら警察(戦時中の警察官をもじったもの)の復活だ」
という声が起き、かなり強い反対運動が起きたことを記憶していますが、私はまだこのような運動に関わることはしませんでした。
1949. 7. 5. 下山事件、  7.15. 三鷹事件、  8.17. 松川事件
1949.10. 1. 中華人民共和国成立
1950. 2.10. GHQ「沖縄に恒久的基地建設」を発表
1950. 2.13. 東京都教育庁「赤い教員」246人に退職勧告 
1950. 3.    平和擁護世界大会がストックフォルムで開かれ「人類に対する威嚇と
            大量殺戮の武器である原子兵器の絶対禁止」というアピールを出し、
            世界各地で盛んに取り組まれた(通称、ストックフォルム・アピール)
※ ストックフォルム・アピールの日本語訳
・われわれは、人民にとっての恐怖と大量殺害の兵器である、原子兵器の絶対禁止を要求する。
・われわれは、この禁止措置の履行を確保するための、厳格な国際管理の確立を要求する。
・われわれは、どのような国に対してであれ、最初に原子兵器を使用する政府は、人道に対する罪を犯すものであり、戦争犯罪者として取り扱われるべきであると考える。
・われわれは、世界中のすべての善意の人々に対し、このアピールに署名するよう求める。

 ストックフォルムで開かれたこの会議から参加の招請を受けた日本の「平和を守る会」は、大山郁夫・金子健太・川端康成の3氏の派遣を決めましたが、GHQの渡航許可が下りず参加することができませんでした。しかし、日本国内ではこのアピールを受けて署名活動が展開されました。ところがこの運動に対する官憲の取り締まりが厳しく、現在行われているように街頭で署名活動をすることなど考えも及ばぬことで困難を極めましたが全国で約650万筆集められました。
 私自身は大学に入学した年でしたが、後で述べるように神戸港で働いいていた経験や、戦時中の体験が基になって学生運動を始め、署名活動に取り組みましたが毎日のように警察官に尾行され、大変な状況に置かれました。

✲ 朝鮮戦争中、砲弾の積み出し港になっていた神戸港
1950. 4.    文部省「あたらしい憲法のはなし」を副読本に格下げ
1950. 6. 6. GHQ日本共産党中央委員24名公職追放指令
            7日に赤旗編集委員17名公職追放指令
1950. 6.25. 朝鮮戦争勃発
 先にも述べましたように両親を亡くしていた私は生活費を稼ぐために大学に通いながら神戸港で週に数日、日雇い人夫〔当時 安雇(アンコ)と言われていた〕として働いていました。この当時、神戸港は朝鮮への砲弾を積み出す重要な港になっており、多くの安雇が砲弾運びで働いていました。砲弾運びは賃金も高かったのですが、「俺は砲弾運びはしない」という強い気持ちが働き、私は綿花やリン鉱石の積み下ろし作業に従事しました。
 私は砲弾運びに従事しなかったため働いている突堤も違い、砲弾運びをしている実際の姿を目にしたことはないのですが、安雇仲間では「10m間隔ぐらいに安全装置を外したカービン銃を構えている米兵に監視されながら砲弾をネコ車に載せて運ぶ作業」だったそうです。なにぶん安雇仲間同士の噂話のため真贋の程は分かりません。しかし、「銃で殴られた奴がいる」とか「垂水灯台付近で漁をしていた漁師が撃たれた」等という話も耳にしました。もちろんこの当時は米兵が起こす問題がラジオや新聞で報道されることは全くありませんでした。そのため、あれこれ疑問に感じていてもこれらの事態の真相を知る由もありませんでした。神戸港は全面的に米軍の管理下にあったのです。
1950. 6.26.  GHQ日本共産党機関紙「アカハタ」発行停止命令 
1950. 8.10.  GHQの指令により、法律でなくポツダム政令により警察予備隊発足
※ ポツダム政令によって発足した警察予備隊の組織・編成・装備・訓練を指揮した占領軍のF・コワルスキー大佐が残している文書(ポツダム政令=GHQの指令による政令を指す呼称)

「マッカーサー元帥の構想は、将来四個師団の陸軍に増強できる擬似軍隊をつくることであった。しかしこれは秘密裏に実行する必要があるので、最初のうちは連合国の協定 も犯さず、日本国憲法にも違反しないように予備隊を運営する必要があった」
「私の個人的感情としては、日本が再軍備されることは、少し悲しいことであった。戦争を放棄する憲法を日本に書かせたアメリカの動機が、いかようなものであったにしろ、私は、戦争放棄こそは人類のゴールであると見ていた。八千三百万人の国家が、戦争およびすべての戦力を放棄した。……ところが、いまや人類のこの気高い抱負は、粉砕されようとしている。アメリカおよび私も、個人として参加する『時代の大うそ』が始まろうとしている。これは、日本の憲法は文面どおりの意味をもっていない、と世界中に宣言する大うそ、兵隊も小火器・戦車・火砲・ロケットや航空機も戦力でない、という大うそである。人類の政治史上、おそらく最大の成果ともいえる一国の憲法が、日米両国によって冒涜され、蹂躙されようとしている」
1950. 8.    レッドパージ始まる
1950.10.    文部省「日の丸」掲揚と「君が代」斉唱を全国に通達
           第一次戦犯の追放解除
1951. 1.    日教組「教え子を再び戦場に送るな、青年よ再び銃をとるな」というスローガンを採択
1951. 6.    GHQ、A級戦犯の追放解除
1951. 9. 8. サンフランシスコ「平和」条約・日米安保条約調印
1951.11.    日教組、日光市で第1回全国教育研究集会を開催
1952. 4.    琉球政府発足
「あたらしい憲法のはなし」が出版されなくなる
 文部省が力を入れていた「あたらしい憲法のはなし」が僅か2年後に副読本になり、またその2年後には出版されなくなってしまったのにはきっとどこからか大きな力が働いたに違いありません。この見えない力を探り当てねばなりません。またこの間、憲法や教育基本法の「改正」を求める政治家の発言が活発になってきました。
1952. 4.28. サンフランシスコ「平和」条約発効
            沖縄が本土から切り離され米国の統治下に置かれる
 私たちが憲法「改正」問題を考える際、1948年に米国務長官が「日本とドイツの限定的再軍備の研究をするよう」陸軍長官に覚書を出さしていたことや、F・コワルスキー大佐が残されたことば等を調べてみるとともに、今こそ全面講和か片面講和かで国内が騒然とした1950年前後の国民の闘いを学び直してみなければならないのではないでしょうか。このことを抜きに憲法「改正」問題を考えることはできないと思うのです。

三、サンフランシスコ条約締結後ますます強められてきた政治の右傾化
1952. 5. 1. 血のメーデー事件
1952. 7. 4. 破防法」成立
1952.10.15. 警察予備隊、保安隊に改組
1952.       神戸港から米軍が一部撤収を始める
※ 1945~1951年 神戸港は米軍の全面的な占領下にあり、1952年より一部撤収が始まり1974年 第6突堤の変換により米軍が完全に撤収しましたが、朝鮮戦争やベトナム戦争で米軍基地として利用され続けました。
 このような状況のもとで。クリスマスには三宮や元町の繁華街に米兵があふれ、市民が暴行を受けるなどの被害も増えました。「平和で静かなクリスマスを」と、神戸港で働く労働者を中心に1961年から「クリスマス闘争」が始まり、1974年になってようやく神戸港から米軍基地は撤去されたのです。この年、米議会で「日本に寄港する艦艇は核兵器をはずさない」というラロック証言があり、翌1975年、神戸港で働く労働者が中心となって市議会に陳情し、「核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否に関する決議」が全会一致で採択されました。これにより、それまで自由に神戸港を利用していた米軍艦は、その後一隻も入港できなくなりました。
1952.       神戸市及び兵庫県第2回教育研究集会
 次に引用しているのは今から60年以上も前、私が教職に就いた1952年の神戸教組及び兵教組の第2回教研集会で「○○小学校における児童をめぐる社会環境の実態とその対策」という提案をしたものの一部です。この報告は「社会主義国」の評価をはじめとして不適切な部分が多々ありますが、当時の子どもや親たちがふと口に出すことばが現在でも相通じるところがあり、自分ながら驚かされます。原文のままで表現は拙いものですが報告のプリントでは、「一、はじめに」の冒頭で次のように述べています。

「戦争がなんでいかんのや、戦争いうたら国の取りやいやど。せんと負けてまうど」これは小学校四年生の子供が授業中にたまたま教科書に中国という名前が出てきたときに一人の子供が話した言葉である。又、何の指導も与えずに中国はどんな国かと質問すれば、大部分の子供が「悪い国」と答え、二割程度が「わからない」と答えて、良い国と答えた者は一人もなかった。ただこれだけのことで社会情勢が子供達にどのように影響しているかを論ずることはできないが、我々の過去を振り返ってみれば政治・経済の矛盾や、思想言論の偏向にふれようとせず、むしろ戦争に賛成し、天皇を絶対視するような誤った歴史、民族主義を唱え、世界戦争を引き起こし、人類最高の罪を犯しながらも、自分たちのあやまりを知ることができないような立場に立たされて来たことから考えてみて、現在マス・コミュニケーションによって、世論がいかに動かされているかうかがい知ることができる。 ―― 以下略

 また、同じ報告プリントの「六、社会情勢がいかに人々の心に、行動に影響しているか 政治情勢の影響」の項では、家庭訪問をした際に父母から聞いた話を次のように引用しています。

サンフランシスコ条約の成立以後、必ずしも過去の日本に返ることを望まないにしても、いわゆる自立のための再軍備必要論者が急激に増加し、「再軍備なくして自立ができない」とか、「独立すれば当然軍備を持たねばならない」或は「再軍備は望まないが朝鮮や中国のことを考えてみると再軍備しないと侵略されてしまう」など、各人各様の再軍備論が横行している。 朝鮮戦争の影響も極めて大きく、没落していた中小企業をはじめ平和産業が、朝鮮戦乱によって武器製作に切換えられ、株の値が上がり、いかにも日本の経済が良くなるかのような錯覚を起こし、「景気を良くするためにどんどん外注の武器製造しなければならない」というような意見も相当数えられる。
 政府の再軍備政策のため、平和産業や農村経済が破壊されているが、それは日本の経済の弱さにあるというような意見もあり、戦争に対する反省や、徹底的な民主主義革命が行なわれずに、形式的な表面に現れる部面だけのいわゆる形式主義に陥り、逆に過去の思想を温存するものとなっている。
「どうせ力の強い者が政治を引っ張って行くんや」「いや日本は戦争に負けたんと違う。経済的に負けたんや」「生産量には限界があるんや。結局誰か幸福になったら又誰か不幸になるんや。結局は戦争に勝たなあかん」「日本も、もう独立したんやさかい、いつまでもアメリカさんに遠慮しとらんと、慰霊祭でもどんどんして、日本のために死んだ人をいつまでも肩身の狭い思いさしとらんと、早よ昔のようにして広い世間に出してあげんといかん」「なんぼ言うても取上げてもらわれへんさかい、言うても一緒やさかい言わへんね」「ああやっぱり君が代はええなあ」「そら、日本の国歌やもん。日本人には一番ええ」「ああ、もうベース・アップなんかあほらしい。今までにベース・アップして生活が楽になったことあらへん」「そんなこと心配せんでも予算さえあったらちゃんと役所で上げてくれる」
 憲法によって健康で文化的な生活を営む権利が与えられ、教育は等しく受ける権利を有し、あらゆる思想・言論・出版・信仰などの自由は保障されていても、健康で文化的な生活を営むどころか、生きていくだけでもその日に事欠き、失業者が町にあふれ、再軍備は強行され、破防法などによって抑圧されていて、民主主義の原則は守られず、 ―― 中略 ――   新聞・ラジオなどのマス・コミュニケーションによる影響も極めて大きく、国際情勢などは一方的なニュースばかりが伝えられ、モスクワ経済会議にしても、北京平和会議でも代表の参加が制限され、いたずらに社会主義・人民民主主義諸国に対して敵対的な報道が行なわれているために、正しい国際情勢の理解なしにやたらに危険視して、再軍備の必要論や、アメリカ軍隊の駐留を求め、アメリカに頼る傾向が強く、自ら問題を解決していこうとする態度がなくなっている。 ―― 中略 ―― 「そんなこと言うても今アメリカ軍に帰られたら、それこそすぐに日本は侵略されてしまう」「どない言うてみても日本はアメリカに援助してもらわんとあかん」―― 以下略
 長い引用になりましたが60年ほど前、子どもや父母がふと口にしたことばや、そのことばを聞いて私がどのように感じ取っていたかを知って頂くために引用しておきました。
 この当時から日本政府は米国の意を受けて様々な政策を打ち出していますが、それに対し、国民の側からそのつど大きな闘いが組まれましたがいずれも敗北に終わり、大多数の国民の世論を結集することはできませんでした。
 戦後、ドイツではナチに対する戦争責任が徹底的に追及されました。しかし、日本ではGHQが絶対的な権力を持っていましたが間接統治で統治され、ドイツほど厳しく戦争責任が問われることなく今日に至っており、基本的に旧日本の支配層が市町村レベルまで実権を持ち続けてきました。
 ところで戦後間もない頃、私はまだ子どもでしたので詳しいことは分かりませんが、政府が「一億総ざんげ」を呼びかけました。しかし、国民の間ではそれに反対する声が強く、「一億総ざんげ」は掛け声に終わったように思います。確かに政治に対する発言権がなかった国民が「一億総ざんげ」に応じるのは筋違いだと思います。ですが、私には「国民の側からの戦争に対する反省が行われるべきではなかったのか」と、思えてなりません。この国民の立場に立った「戦争への反省」の弱さが、前記の教研集会のプリントにあるような子どもや親のことばとなっており、今なお「従軍慰安婦問題」等に顕著に表れてくるように「歴史認識」を問われる問題が出てくる下地になっているように思えてなりません。憲法「改正」問題もしかりで、一般市民の憲法に対する感覚にも大きな影を落としているのではないかと思えてならないのです。そしてそれは、東北アジアの国際問題ともかかわって、政治の右傾化を支える要因になっていないでしょうか。
1952.12.   石川県 内灘基地反対闘争始まる
1953.1.    中教審発足
1953.7.27. 朝鮮戦争休戦
1953.10.   池田・ロバートソン会談「教育および広報によって日本に愛国心と自衛のため
           の自発的精神が成長するような空気を助長すること」を約束、日本防衛構想3
           カ年計画決まる
1954. 3. 1. ビキニ水爆実験、第5福竜丸被爆
1954. 3. 8. MSA協定締結(自衛隊の対米従属を実体的に支える条約)
1954. 7. 1. 自衛隊発足
1955. 6. 7. 第1回「日本母親大会」開催
1955. 8. 6. 第1回原水爆禁止世界大会が開かれ、9月に日本原水協が結成される
1956. 4.    清瀬一郎文相 国会審議の中で教育基本法には“国家に対する忠誠心がない”
           などの理由を挙げ臨教審設置法案の第一のねらいは「教育基本法の改正」にあ
           ると明言 「日本人としての自覚・愛国心の教育」を強調
1956.~64.  憲法調査会の改憲構想
1956. 6.30. 教育委員を公選制から任命制に
1956. 7.    「もはや戦後でない」ということばが流行語となる(経済白書のまとめのことば)
1957.       日教組が「非常事態宣言」を出し全国的に勤評反対闘争が起きる
1958.4.     道徳教育の特設
1959. 3.30. 砂川事件・伊達無罪判決
1960.       安保闘争
1960.10.15. 荒木万寿夫文相、参院文教委員会で教育基本法「改正」を求める発言
※ 荒木万寿夫文相発言の一部

「終戦直後の米軍の占領政策は、日本をどのようにして立ち上がれないようにするかに根本目標があった。現行憲法は、このような考えのもとに草案を押し付けられたもので、この憲法に従って、さらに教育基本法がつくられた。したがって、憲法も、教育基本法も、日本人の総意が盛られ、自由な意思が表明されているとはいえない。憲法については、憲法調査会が足かけ四年にわたって再検討しており、教育基本法についても、総選挙後、広く学識経験者を集めて再検討にとりかかりたい」
1960.10.19. 朝日訴訟勝利判決
1961.       学力テスト反対闘争
1966. 6.25. 「建国記念の日」制定
1966.10.    10・21スト
1966.10.31. 中教審「期待される人間像」答申
※ 森戸辰男中教審会長が「期待される人間像」の発表に際し述べたことばの一部
 「有事の際」に備えての「祖国を守る決意」と「自衛力を充実させる必要がある」「戦後における平和国家と平和教育の考え方は根本的に反省され、改革される必要があると私は信じている」

 1966年の秋、6年生の子どもたちを連れて神戸港の見学に行きました。この後、多くの子どもが作文に神戸港の見学を題材にした作文を書いています。その中に第6突堤が米軍に接収されていることに触れている子どもがいました。

  前略―― 第六突堤の西側はアメリカが租界地のようなものを作っている。外に金あみをはり、かけふだに「在日米陸軍……関係のない人は立ち入りを禁ずる。もし入ると、日本の法りつでばっせられます」と書いてあった。ここだけ、入り口にけんさ所をもうけている。 ―― 後略(とても長い作文の一部)

 この当時、第6突堤は金網で仕切られ入り口に検問所があって「日本人立ち入り禁止」の大きな看板が掲げられており、第6突堤には市民が自由に立ち入ることができませんでした。中突堤から第6突堤まで自由に出入りができたのに、第6突堤に来ると全く立ち寄れないことに子どもの目にも納得のいかないことだったに違いありません。先にも書いきましたように、1974年まで神戸港の第6突堤は米軍に完全に占拠されていたのです。

四、憲法改悪は平和だけでなく生活も破壊される
✲ 政治家の暴言が相次いでいる昨今
 安倍首相が「侵略の定義は定まっていない」と発言し、日本維新の会の党大会で橋下 徹共同代表との間で行われたネット対談で石原慎太郎衆議院議員は「米国の妾みたいな形で日本を安住させた憲法をぶっ壊す」とまで言い放っています。ここまで憲法を公然とないがしろにしてよいのでしょうか。また、橋下 徹市長は戦時下では「慰安婦制度は必要だった」という主張を繰り返しています。このことばから戦争に対する反省や、人権を尊重するという態度はみじんも感じ取ることができません。このような政治家の発言を許しておくわけにはいきません。
 ところでこのような政治家の右翼的潮流はどこに源を発しているのでしょうか。戦後のアメリカの対日政策の転換については繰り返しませんが、2002年8月、ブッシュ政権が初めて発表した国防白書では「アメリカの戦略は……、アメリカとその連合国の意見を強制する能力を維持しなければならない。そうした決定的な打倒のなかには、敵国の体制を変えること、あるいはアメリカの戦略目標が達成されるまで外国領土を占領することが含まれる」と述べています。私はこのアメリカの意図と、日本の右翼的政治家の言動とは重ねて読み取ることが必要だと思うのです。

✲ 「大日本帝国憲法」も形の上では「人権」を保障する条項が整っていた
 「大日本帝国憲法」には「第23条日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」「第24条日本臣民ハ法律ニ定メタル裁判官ノ裁判ヲ受クルノ権ヲ奪ハルヽコトナシ」と定められていました。しかし、先にも述べましたように戦時中、倉岡愛穂氏は「新興教育」に関わりがあったという理由で逮捕、虐殺されています。つまり「治安維持法」を持ち出せば「法律ニ依」り、非人道的などんな無法なことでもできたのです。私たちはこの過去の教訓を忘れることはできません。
 ところで現在、憲法「改正」の大合唱が強まっています。ここでは限られた紙数で詳しく述べることはできませんが憲法9条は「解釈改憲」が重ねられていますし、国民生活の分野を見ても多くの労働者が非正規雇用に象徴されているようにあまりにも無権利状態に置かれています。今こそ憲法を暮らしの中に生かし、平和と基本的人権を守り、主権在民を貫いていかねばなりません。

参考文献  戦争違法化の時代と憲法9条 学習の友社 川村俊夫著
      「集団的自衛権」批判 新日本出版社 松竹伸幸著

               (「神戸子どもを守る会」会長)